宇佐、安政大地震の地震碑と真覚寺住職の想い〔2835〕2011/01/19
2011年1月19日(水)晴れちょります
今朝は、昨日一昨日ほどの冷え込みではなく、格段に過ごしやすうに感じましたね。キレイに晴れちょります。
一昨日は1月17日でした。阪神淡路大震災が起きた日。高知でも揺れました。あのものすごさを忘れたらいけません。高知で地震と言えば南海地震で、有史以来ビッシリ高知に大被害をもたらしちょります。中でも、津波の被害が大きゅうございます。
土佐の各地に、南海地震の被害を後世に伝えようという碑が立てられちゅう、というお話を何度かしました。
2009年1月17日とかの、上岡八幡宮の碑、2010年7月30日の夜須観音山の碑、2010年6月30日の赤岡飛鳥神社の碑、2010年7月9日の十市、琴平神社の玉垣、などなど。バックナンバーをご覧ください。
今朝ご紹介するのは、宇佐にある、安政大地震の地震碑。
ここはなかなかわかりづらい場所にあります。いや、以前は、この道は峠を越えて高岡の方へ抜ける往還(メインルート)で、お遍路さんも通るにぎやかな道やったにかありません。今は、この東に大きな道路とトンネルが抜け、歩き遍路さん以外はメッソ人も通らん場所。港の横に「安政地震の碑」とかいた、矢印付きの案内板がありましたが、それでここまで来れるヒトは絶対に居ません。
この碑は、津波で甚大な被害を受けた宇佐の皆さんが建てた碑。安政五年六月十五日、宇佐の真覚寺住職、井上静照さんが、この碑の前で法要を行い、その模様を日記に書き留めておられます。この日記は「真覚寺日記」と名付けられ、安政地震の様子を書きとめたことがきっかけとなり、明治元年まで14年間丁寧に書かれちょります。幕末の庶民の生活、情報の流れ方などが手に取るように判る、ものすごい資料。純信お馬スキャンダルや龍馬暗殺、鏡川ののえくり、トンコロリ流行の状況などが克明に描かれちゅう日記。
で、この地震碑の前で行った法要、そして法談の内容も日記に書いちょります。それによりますれば、この碑を立てた理由は、正面に六字名号、つまり南無阿弥陀仏を刻み、その下にお経を納めて、地震津波で亡くなった方々を「追福」すること、そして、残る三面に地震の様子を克明に刻み、後世の人達の心得にする、ということだそうです。
今、ご覧の通り、横を流れる川の改修工事が行われよりまして、道路の舗装も剥がされて、こんな感じに仮設置みたいになっちゅう地震碑。
工事完成の暁には、ぜひ、この静照さんの想いを反映させ、建立の目的と、この碑に刻まれちゅう津波の様子を現代文に読み下したものが書かれた説明板を立ててもらいたいもんです。もちろん、宇佐の街からここまで迷わずに来れる案内板も。