クビキリギリスと図書館と青柳橋と新聞のお葬式〔2834〕2011/01/18
2011年1月18日(火)今朝もシビコオリました
昨日、あの厳寒の中の昆虫をご紹介しましたら、お客さまの声・広場に、タベシマJr.2号さんから「クビキリギリス」ではないかとのご指摘がありました。たぶんそうです。さすが図書館ヘビーユーザーですね。図書館の威力はすごいです。ありがとうございました。ゆったり広々、くつろげる図書館は、市民の図書館としてこじゃんと大切な部分ですきに、頑張りますね。今の事務局案ですと、スペースが全然足らんようですきに。
さて、昨日の最低気温を見てみますと、ひまわり乳業の在る界隈の南国市日章では、なんとマイナス7.3℃。高知市内より4℃以上低うございました。シビコオったはずです。クビキリギリス、エラいもんですね。
アリとキリギリスの話では、夏場遊び呆けたキリギリスが冬になって食べ物がなくなり、冬が越せなくなる、ということやったと思います。が、あのように、マイナス7.3℃の厳寒の冬でも、キチンと食事をして生活しゆうキリギリスも居る、ということですな。勉強になります。
ここは今朝の五台山麓。左手が青柳橋で、正面に東の空に沈みゆく満月。国分川河口に映るお月様が美しゅうございます。
この青柳橋、明治初年に架けられました。様々な高知の歴史を見てきちょります。架けられて間もない明治15年。自由民権運動の機関誌「高知新聞」が、当局によって発行禁止に追い込まれました。そこで、民権家たちは、「新聞の葬式」を執り行うことにし、新聞を棺に入れました。本町の新聞社から葬列を組んで、稲荷新地から青柳橋を渡って五台山まで。会葬者は5000人を数えたとか。発行禁止になった「高知新聞」の替わりに発行された「高知自由新聞」も、しゅっと発行禁止になって、またまた新聞葬を決行、今度は10000人を超える会葬者が本町を出発、この青柳橋を渡りました。
いかがでしょう。やることが酢が効いちょりますよね。こういう皆さんを「土佐人」と呼びます。そんな誇れる土佐人の歴史を見てきた青柳橋は、今もここに架かっちょります。