ご寄進者名に名字が無いのは〔2822〕2011/01/06
2011年1月6日(木)晴れ!
朝方、ちくと雲も多かったですけんど、晴れてきました。
ここはいつもの上岡八幡宮。南東側から参道を北東に進み、文化十年(1813年)ご寄進と思しきゴツゴツした石段を上ると、拝殿が鎮座ましましちょります。その建物の、向かって右側に、更に上る階段があり、その上がここ。左手の立派な建物が、この八幡様の本殿。そして、正面の山が、上岡山。
このように、ここに、「奉寄進」と刻まれた石台がございます。正面に、弘化五年三月と刻まれちょりますので、龍馬くん満12才にして、日根野弁治道場に入門した歳。西暦で言えば1848年。ペリーさんが浦賀にやって来る5年前。
あれ。弘化5年2月28日に、元号は嘉永と改元されちょりますな。従いまして、弘化五年三月は、存在せんかったものと思われます。幻の弘化五年三月。
この台座がつくられたがは、たぶん2月やったでしょう。で、3月になってご寄進したところ、既に元号が変わっちょった、ということでしょうか。それとも、こんな土地までは、中央で元号が変わったという情報がしゅっと届かず、改元されたことを知らずに弘化五年三月と彫ってしもうたがかも知れません。謎です。
さて、これをご覧頂ければ判りますと通り、やはり山に向こうてお供えし、お祀りするようになっちょります。この八幡様、もちろんご祭神は応神天皇さんでしょうが、ご神体、ヒモロギは、この正面の山やったと思います。ご近所の氏子の皆さんに尊崇されてきた山、上岡山。
この台座の側面には、ご寄進された方々のお名前が刻まれちょります。この神社の、狛犬とか燈籠とかにはたくさんのご寄進者名が刻まれちょりまが、基本的には「嶋内だれだれさん」という風に名字付きのお名前。ところが、この台座に刻まれたご寄進者は「魚作」「八十八」「友之丞」「忠左エ門」など、名前のみになっちょります。これはどういうことながでしょうか。この台座のみ、そういうことになっちゅう理由は、謎です。庄屋さんとか大地主さんとか郷士さんとかぢゃあ無うて、庶民の皆さんがお金を集めてご寄進したがかも知れません。全然違う理由かも知れませんが。