上岡、神岡、弥生集落、東野土居遺跡、物部氏〔2805〕2010/12/20
2010年12月20日(月)曇っちょります
今年もあと10日ちょっと。押し迫って参りました。今日は雲の多い、暖かい朝。夜明け前の暗い神社にお参りすると、世間の喧噪が嘘のように静かな雰囲気を味わえます。
ここはいつもの上岡八幡宮。そう。昨日、朝倉神社のご紹介で、東征してきた邪馬台国の天皇一族に追われた一部の物部氏がやって来たがやないろうか、と書いた上岡八幡宮。
まだ暗いうちに来てみますと、その醸し出す雰囲気はことのほか幽玄で、何か特別な空気を感じさせてくれる気がします。このお宮さんの後ろにある山は上岡山で神岡山。大昔から神体山やったことでしょう。
神武東征で西日本統一政権ができた時代、ここ土佐は弥生時代末期。当時、土佐南岸で一番栄えちょったのは、今、飛行場がある界隈の田村。しかし、徐々にその集落規模は小そうなり始め、弥生時代の終焉を迎えつつありました。
今年10月23日のにっこりをご覧下さい。ここ上岡から東へ数キロ、田村弥生集落から、物部川を渡って東へ数キロの場所の、東野土居遺跡という前期古墳時代遺跡をご紹介しちょります。前期古墳時代では、県下最大級の規模。
新政権下、土佐は、その政権に入ることを潔しとせんかった物部氏の一部集団が移住してきて、力を持っちょったがかも知れません。土着の有力者と折り合い、また攻撃し、吸収しながら。
東野土居遺跡の支配者は、ここ上岡を神体山とした物部一族やったという妄想が、頭の中をたつくります。
その後の土佐は、賀茂氏の匂いがこじゃんと強うなりますよね、土佐神社もそうですし、朝倉神社もそう。その南東の鴨部、郡頭神社はまさしく鴨氏のお宮さん。
賀茂氏と物部氏、実は同系やったがやないろうか、という説もあります。
土佐の、巨大な権力に対する反骨精神は、そんな時代から育まれてきた、とか考えると楽しいですな。