朝倉神社、赤鬼山と三輪山、物部一族と土佐〔2804〕2010/12/19
2010年12月19日(日)晴れ!
今日は久々に、朝倉界隈をたつくった後、針木から天王の脇を抜け、八田で仁淀川を渡って蘇鶴温泉まで走りに行っちょりました。丁度良いくらいのランニング日和で、こぢゃんと心地良かったです。
ここは朝倉神社、拝殿の後方、国指定重要文化財の本殿。藩政期初期に建てられたらしい荘厳な建物。そしてその後方に、この朝倉神社のご神体山である赤鬼山がちんざましましちょります。
最近、邪馬台国とか大和朝廷とかの本を読み、野市の上岡八幡宮をお参りするにつけ、不思議な妄想が頭を支配するようになりました。
今年7月25日のにっこりにも書きましたが、上岡八幡宮は、ニギハヤヒノミコトが大和から石船(天磐船)に乗って飛んで来たとされる場所。物部氏の祖とされるニギハヤヒノミコトさん、神武天皇が東征して近畿へやって来る前に、どうやら九州、邪馬台国から一足先に河内、そして大和へやって来た物部氏のことらしいのであります。これは谷川健一さんの説ですが、つまり、九州にあった邪馬台国が朝鮮半島や中国の情勢に影響されて近畿地方へやって来て、先に来ちょった物部氏を征服したがが、日本書紀の「神武東征」やと。
物部氏は邪馬台国の天皇一族とは同族やった訳ですが、後でやって来たミマキイリヒコに征服されてしもうたがやないろうかという訳です。
さて、征服された物部氏、その中心的な人たちは、新しい日本の政権のなかで重要され、活躍することになります。しかし、飛び出た物部一族も居りました。その、飛び出た物部氏の中に、ここ土佐へやって来た一族が居った訳です。いつもお参りする上岡界隈を一旦の本拠地とし、その後、香我美町へと移って行ったがかも知れません。
物部という地名が上岡の西、ひまわり乳業界隈に残っちゅうように、土佐は、中央政権離脱組の物部一族にとって、なかなか大事な場所やったがやないですろうか。
同時期。たぶんこの朝倉界隈にも、物部氏の勢力は延びちょりました。大和で物部氏が本拠としたがは、箸墓古墳とかのある巻向界隈で、三輪山の麓。赤鬼山は、その三輪山と、姿がよう似いちょります。そして朝倉神社のご祭神が天羽羽神(アマツハハガミ)。
神武天皇が長髄彦を討伐する際、ニギハヤヒさんが天表(アマツシルシ)の証拠品として差し出した、つまり自分が天の神様の係累であることを示したのが、「天羽羽矢(アマノハネハヤ)やったという事実と、ここ朝倉神社のご祭神の名前の類似性。う~ん。このしゅっと西には古墳もあります。
あの古墳、大和からやって来た物部一族のものかも知れんですな。と、いうことは、いつも言うようにあの野市の上岡八幡宮さんにも、当然物部一族の古墳があってもおかしゅうないという訳です。
その他、朝倉神社と関係の深い斉明天皇の話とか、こっから西へいった「日下(くさか)」の地名の話とか、とにかく語り尽くせん妄想が頭の中をたつくりよりますので、また、機会がございましたら続きを書きましょう。皆さんのご意見、妄想をお待ちしちょります。