一条橋、明見川、妙見川〔2798〕2010/12/13
2010年12月13日(月)小雨模様
今朝は久々に電車通りを通って出勤してみました。途中、小雨が降りだいたがにはアズったですね。ちくと濡れてしまいました。
ここは朝5時前の一条橋。左端に見えゆうがが土電の「一条橋」停留所で、この橋のこちら側に「清和学園前」の停留所があります。運賃区間が違うのに、この短い橋ひとつ分しか離れちゃあせんという、たぶん日本でも有数の駅と駅の間が近いところやと思います。
この一条橋、もちろん、この近くに、戦国末期、土佐一条氏の「大津御所」があったことに由来します。
土佐一条家は、応仁の乱を逃れて京からやって来た前関白一条教房さんを祖とし、幡多地方を完全に勢力圏に治め、太平洋経由の貿易の利権で拡大したと思われます。しかし、戦国後期になって群雄割拠となり、長宗我部元親軍にやられてしまいました。一条兼定さんがご当主の時代。兼定さんの息子、内政(ただまさ)くんは、長宗我部元親さんの娘婿になっちょったこともあって、兼定さんが元親さんに破れた後、ここ大津に御所を構えて暮らすことを許されちょったそうです。
この橋の欄干に見える家紋、これは「下がり藤」で。土佐一条家の家紋。そしてこの橋が一条橋。明見川に架かる橋。明見川は、この南東から流れてきて、この向こうで舟入川に合流します。
明見川は妙見川。このちょっと上流に、妙見菩薩さんが鎮座しちょったきですね。昨日も書きましたが、明治初期の廃仏毀釈で、妙見菩薩さんは星神社になりました。妙見信仰は北極星信仰ですきんねえ。
舟入川は、藩政期初期、ご存じ野中兼山さんが開鑿した水路。ですきに、戦国期にはなかった訳です。が、この明見川はありました。明見川が、土佐日記の時代には大津の港まで、その後の時代には浦戸湾まで流れちょったがでしょう。大津御所は、その川沿いにあったと思います。山田堰から掘り進んできた舟入川は、ここで明見川に合流し、その流路を利用して浦戸湾につなげたがやと思います。
妙見信仰は、平安の昔からありました。現在の南国市明見は、古墳群があったりする古くからの信仰豊かな地域。一条内政くんの時代にも、紀貫之さんの時代にも、ここに妙見川という名前の川が流れちょったがかも知れません。