鉢伏山周辺の戦争遺跡は荒れ果てちょります〔2796〕2010/12/11
2010年12月11日(土)晴れたり曇ったり
ちくと冷える土曜日。このところ、山をたつくりに行く機会がなかったので、久々に行っちょりました。どこをたつくろうかと迷うたがですが、今日はここ、介良の山。こないだうち、麓の道路を拡張しゆうところをご紹介した小富士山から南に連なる鉢伏山。
まずは西南の登り口から岩屋観音堂めがけて駆け上ります。このところ運動不足ですきに、息が切れてハアハアゼエゼエいいもって、何とかたどりつきました。その脇から鬱蒼とした山道を登ると、鉢伏山の頂上に。
ほとんど、訪れる方も居ないらしい、シダで覆われた道をかきわけかきわけ登っていくと、大きな岩に差し掛けるように大山祇神社の小さな建物があります。小さな入り口を入ると、薄暗い室内の向こうのむき出しになった岩に大山祇様が祀られちょります。お参りして、尾根筋を北へと向かいます。
以前にもご紹介しましたが、この山頂付近には、縦横に溝が掘られた跡があります。太平洋戦争末期、米軍上陸作戦に備えて、ここに守備の陣地が構築されちょったがです。鬱蒼とした薮に囲まれちょりまして、最近ヒトが訪れた形跡はありません。尾根筋を上り下りし、しばらく行くと、眼下に潮見台ニュータウンを見下ろす見晴らしの良い場所に出ます。そこからは東に連なる向山や南の琴平山、そして太平洋と香長平野が見張らせます。この頂上界隈に塹壕がたくさん掘られちょった意味がわかります。米軍上陸のすべてが鳥瞰でき、把握できるきですね。
潮見台ニュータウンから頂上界隈への山道は、ほとんどヒトが通った形跡がなく、この先通れるがやろうか、と不安になるような鬱蒼とした茂み。住宅地のしゅっと上に、戦争の生々しい痕跡があることを、もっと知っちょってもかまんがやないですろうかね。
団地へ下り、潮見台2丁目の西側の公園から西へ下る山道を下りていきました。案内板では、以前ご紹介したことのある第11師団司令部跡の方へ下りて行ける道のようでしたので。竹薮の中の道は、ヒトも結構通るようで、広くて歩きやすい山道。ところが。
その山道は、師団司令部跡を通らんづくとに麓につながっちょったのであります。今一度、もうちょっと北側から登る登り口を見つけて仕切り直し。今度は、竹や木々が倒れ込んで来て道を塞ぎ、こじゃんと通りにくうなっちゅう山道、途中、「嗚呼 錦兵団司令部之跡」の案内標柱もありましたが、折れたままホタクラレちょりました。
そしてたどりついたががここ。
枯れた樹木が倒れ込み、以前にも増して荒れ果てた感が横溢しちゅう、第11師団司令部跡。乃木大将も師団長をつとめたことのある名門第11師団は、太平洋戦争末期、この土佐の山中に司令部を遷し、米軍上陸抵抗作戦をやろうとしよった訳です。昭和 20年8月15日、終戦となり、夥しい塹壕や防御施設とともに不要になった第11師団。その師団は錦兵団とも呼ばれました。
この荒れ果てた山腹にある碑には、「嗚呼 錦兵団司令部之跡 昭和二十年九月十二日師団解散ニ方リ 第十一師団長陸軍中将 大野廣一書」とだけ刻まれちょります。
せめて、地元の子供たちに、ここに正しく戦争があった、ということを伝えて行く義務が大人たちにはあるがやないろうか、と、考えさせられる荒れ果てた戦争遺跡です。