稲荷新地、下の新地、埋立新地〔2782〕2010/11/27
2010年11月27日(土)快晴!
良いお天気。
こないだ、歴史民俗資料館でやりよった企画展で、幕末から明治の高知の庶民生活についての絵や文書が展示されちゅうお話をしました。その中に、浦戸湾の生活を描いた絵とか絵馬とかがどっしこありました。
で、明治期の稲荷新地から五台山にかけての絵図は、同時期のものがいくつかあったので、こじゃんと興味深かったです。青柳橋が架かる直前のものと架かった直後のものと。
今の青柳橋西詰から土佐稲荷神社にかけて、稲荷新地という歓楽街ができたことはご存知の通り。今はその面影も全然残っちゃあせんので、どんな風景やったのか想像もできませんが、その絵を見ると、当時の様子が蘇ってきます。
稲荷新地は、知寄町から南へ行った鏡川河口につくられた街。河岸の外側に埋め立て地をつくり、その上に街をこさえた様です。絵図を見ると、今の土佐稲荷から青柳橋までの道路の部分が埋め立てられ、その北側にはまだ池のように海の部分が残っちょりました。そう、海の上に埋め立てられてつくられた新地が稲荷新地やったようながです。
そう言えば、土佐稲荷神社の玉垣に「埋立新地 泉厳楼」という寄進者名がありましたですきに、当時は埋立新地とも呼ばれよったことがわかります。その埋立新地には、料亭や芝居小屋などが立ち並び、鏡川上流の玉水新地を上(かみ)の新地と呼んだようにここを下(しも)の新地と呼んだのでありました。
稲荷新地は埋立新地で下の新地やった訳です。
この写真を撮影した場所は、戦争時まで、土電の電車の「稲荷新地」という停留所があった場所。当時の繁華を想像してみましょう。