震洋隊慰霊塔と、錆びた車輪〔2751〕2010/10/27
2010年10月27日(水)快晴!
よう晴れちょります。昨日のお昼過ぎから気温が下がり、ちくと肌寒うなってきました。季節はどんどんと進んでいきます。
さて、今日も高知の中東シリーズ。
旧夜須町の、手結(てい)の海水浴場を過ぎて手結山のトンネルを抜け、ちょっと行った所を右折、海岸へ下った界隈が住吉。昔は手結と並ぶ海水浴場で、ウニが多かった記憶があります。その、住吉の港の手前に、大きな記念碑が立っちょります。震洋隊殉国慰霊塔。写真の左上にちょっとだけ、その慰霊塔の白い石板が見えよります。
何度かお話したことがあります。昭和20年8月15日に、太平洋戦争は終わりました。が、その翌日、ここで悲劇が起こりました。
ここ住吉には、戦争末期、海軍の突撃隊「震洋隊」160名が、来るべき本土決戦に備えて配備されちょりました。「震洋」は、ベニヤ板で急ごしらえされたボートで、火薬を積み、敵の船に体当たりをして破壊するという、帰還することを想定しない特攻の悲しい兵器。幸いにも使用されることなく、8月15日の終戦を迎えました。しかし翌日夕刻、謎の攻撃命令が下されました。検証しても、いったい誰がそんな命令を出したがか判っちょりません。終戦に納得できんかった海軍将校でしょうか。で、命令ですきに仕方ないので、火薬を満載した震洋隊は出撃準備をしました。その際、引火爆発事故が発生、一瞬にして111名の兵隊さんが犠牲となったのです。何故、戦争は終わっちょったのに、という、本人遺族にとってはホントに悔しかったであろう大事故。
この慰霊塔は、その事故の犠牲者を慰霊するために建てられたもの。高知の皆さんもメッソ知らんがやないでしょうか。この慰霊塔の前には真っ青な太平洋が広がり、何事もなかったようです。
その慰霊塔の横、ソテツの下に、ご覧のような錆びたオブジェが無造作に転がされちょります。丸い、車輪みたいにも見えます。雨ざらしで、朽ちていきゆう錆びた鉄のかたまり。ネットで調べてみましたら、どうやら、これは震洋を搬送する台車の車輪やったがにかありません。大爆発事故で歪み、破損した台車の車輪。もしそれが本当なら、博物館レベルの貴重な遺品。
何の表示も掲げらちゃあせん鉄のかたまりが、大事故の凄まじさをそのままの迫力で伝えてくれます。大切に残し、語り伝えていかんといかん戦争遺跡です。