路面電車の痕跡、古き良き時代〔2711〕2010/09/17
2010年9月17日(金)晴れちょります
こないだうち、昭和の痕跡シリーズをやりましたですきに、今日は明治大正の痕跡をお届けしましょう。これも昔一度ご紹介したやつで申し訳ないですが。
が、これが明治の痕跡やとわかっちゅうのは、今や高知ではひまわり太郎だっけかも知れない、というレアな痕跡スポットです。
ここは、電車通りの堀詰から、中央に植え込みのある広い道路を南へ行った突き当たり。そっから東向いて撮影しちょります。まっすぐ向こうへ行くと電車通りの南北の通り。この道路、向こうへ行くに従って、ちょっとづつ登り坂になっちゅうががわかりますでしょうか。
道路の右手が土手のように一段高うなっちゅうがですが、この道路は向こうの端の電車通りの所で、この右手の土手上の高さと一緒になっちょります。この数十メートルの間に、3mくらい下がってきちゅう感じでしょうか。向こうの電車通りは、鏡川を渡る潮江橋の北詰。いっつも通るので普通は気にしちょりませんが、通常、川の堤防の高さからこんなになだらかなスロープで下ってきちゅうがは珍しいですよね。
もったいぶってすみません。そう。ひまわり太郎が発見したのは、このスロープ、土電の電車の線路があった痕跡であるだろうということ。土佐電鉄は明治37年に開業しちょります。で、明治39年、梅ノ辻と堀詰の間が開通し、潮江橋の上を電車が渡るようになりました。その際、桟橋方面から北上してきた電車は潮江橋を渡り、しゅっと左折してこのスロープを下りよったのでありました。で、この写真を撮影した場所で右折北上し、堀詰で再び左折、乗出方面へと走りよった訳です。つまり現在のはりまや橋交差点を通ってない。これは、はりまや橋界隈の住民が、電車が通ることによって街が寂れるとして反対したことによるそうです。高知出身の漫画家、フクちゃんで有名な故横山隆一さんが子供の頃この界隈に住み、親がそんな話をしよったことを書いちょりますきに間違いないでしょう。
昭和3 年、はりまや橋交差点が電車の交差点になり、現在の形になって、ここを走りよった路線は廃止されました。つまり、大正期はずうっとここを電車が走りよったということになります。このなだらかな坂道がその痕跡に違いないと発見したのは、高知の痕跡研究家、ひまわり太郎なのでありました。えへんえへん。