賃取り橋と言えば一文橋、江の口川です〔2690〕2010/08/27
2010年8月27日(金)お暑うございます
こないだ、鏡川の賃取り橋のお話をしました。昔は、橋も私設のものが多く、地域の有力者が自分で架けたりするがが当たり前やったということ。そういえばはりまや橋も私設の橋やったですね。
高知市内で有名な賃取り橋と言えばここでしょう。江の口川に架かる一文橋。江戸時代、この橋は有料で、一文が通行料やったもんですきに今でも一文橋という名称が残っちょります。
この南北の大きい道路ができる前は、電車通りから来るまでまっすぐ繋がっちゃあせんかったですし、橋もちんまかったですが、今は大きな立派な橋になりました。欄干に寛永通宝のデザインがあしらわれちょります。
この江の口川、藩政期初期には、今よりだいぶ広い川やったと言われます。ですきに大川とも呼ばれました。で、お城下郭中と、江ノ口村、小高坂村とかとを隔てる川でございまして、橋もたくさん架かっちょりました。川の北と南は、簡単に往き来できるようになっちょった訳です。これと対照的ながが鏡川。街中を流れる部分に関しては、架けられちょった橋は天神橋のみ。他は許されませんでした。これは、山内家としての危機管理でしょう。藩政期初期、まだ長宗我部の残党が土佐のあちこちに残り、不満を抱えちょりました。いつ、反乱が起きてもおかしゅうない。そこで山内の殿様は、鏡川には天神橋のみを架け、北から長宗我部残党が攻めて来たら天神橋を渡って菩提寺の真如寺、そして筆山へと逃げ込む計画やったと思われます。もちろん一つしかない天神橋を、避難後に落とすがは言うまでもありません。筆山からは、ひまわり太郎がビッシリたつくりゆうように、南嶺を通って長浜、太平洋方面への逃げることも可能。鏡川で時間稼ぎをしゆう間に逃げれる訳ですね。
さて、この橋は賃取り橋やった訳ですが、この西に架かる橋は山田橋。番所のある橋で、いろいろと通行もややこしかったでしょうきに、金を払うてもこの一文橋を渡った方が多かったかも知れません。
向こうに地球33番地(北緯33度33分、東経133度33分の地)のモニュメントが光りよります。