本土決戦の山々〔2644〕2010/07/12
2010年7月12日(月)曇っちょります
65年前の今頃、高知は終戦直前でした。7月4日の高知大空襲で市内は焼け野が原になり、状況はどんどんと悪化していきよりました。
ここは今朝の高知空港。北西に延びる滑走路横の見晴台から撮影してみました。眼下の滑走路下には、県下最大の弥生集落遺跡や中世の環濠集落遺跡が眠りよります。向こうに見える山々は、65年前の7月、米軍の上陸による本土決戦に備えて要塞が築かれよりました。その守備部隊は第11師団。本土決戦に備え、その司令部を高知へ移動、右手に見える山の北西斜面に置きました。このにっこりでも何度かご紹介しちょります。
右手、手前に連なる向山の地下トンネルも、ご紹介したことがありますね。司令部のある鉢伏山とかは、海岸からはひと山越えた奥の方になります。米軍はこの高知空港の場所にあった海軍航空隊の飛行場を占領し、高知市内方面へ攻め込むことが予想されましたので、前線の砦は、こないだご紹介した琴平山に築かれちょります。向山のような隧道が掘られ、砲台や壕がたくさん築かれちょった琴平山。あの琴平神社の周辺は戦争遺跡だらけらしいですね。その琴平山は、写真に見える山々の左端。あそこから、山を越えて右端にある司令部を攻めるということになったでしょうか。
実は、これも何度か書きましたが、65年前の8月15日に戦争が終わらんかった場合、米軍はダウンフォール作戦という日本上陸作戦を実行する予定でした。ダウンフォールとは殲滅という意味がありますきに、それはそれは凄まじいものになったでしょう。まず、10月後半にここ、高知へ8万人の部隊を上陸させて制圧します。これがパステル作戦。そして四国へ上陸と見せかけて九州南部へ大部隊を上陸させるががオリンピック作戦。足場を築いた上で、首都東京を制圧する上陸作戦がコロネット作戦。これを総称してダウンフォール作戦という訳です。
その作戦の火ぶたを切って落とすのが、向こうの山々に築かれた要塞での戦闘やったがかも知れません。あの硫黄島や沖縄のような惨劇が、あの静かな山々で行われちょったかも知れんがですね。そんなことを、高知の子ども達はたぶん全然知りません。こんな話も、後世に語り伝えていかんといかんと思います。