鏡川、潮江川、大川、河内山、高智山、高知〔2643〕2010/07/11
2010年7月11日(日)曇っちょります
昨日、龍馬が泳ぎを練習した鏡川をご紹介しました。この川は、高知のお城下と山内家の墓所がある筆山との間を流れる美しい川。お城から南へ下って川岸へ出ると、その川面は筆山をそれこし筆のように映して美しゅうございます。
鏡川は、その、流れる場所によって名前が違うちょりました。この下流域は潮江川。で、元禄の頃、五代目藩主山内豊房さんが、鏡のように美しい川ということで鏡川と命名したらしゅうございます。
写真は、鏡川最下流に架かる鏡川大橋から西向いて撮影したもの。
今日は大潮で、河口部汽水域のこの界隈、だいぶ潮が引いちょります。山内一豊さんが城下町づくりをした頃、お城下は、この潮江川と、お城の北の川に挟まれちょって水害に悩まされました。北の川、現在の江ノ口川は、今よりずっと川幅が広く「大川」と呼ばれよったのであります。この潮江川より、北の大川の方が広かったそうですね。
その後、治水が進み、現在のかたちになってきました。
お城下には南北の川から水路が引かれ、水の都といった趣の高知の城下になったのであります。ビッシリお話しよりますきにご存知の方も多いでしょうが、北と南の大きな川に挟まれたお城は、当初山内一豊さんが築城した際には河内山(こうちやま)城でした。けんど、水害に悩まされるので河内では縁起がよろしくないということで、五台山の名刹、竹林寺の空鏡上人が「高智山城」という文字を当て、そっれが高知になりました。
そう。最初は高い智恵やったのであります。この街は、高い智恵の街やったのでありました。高知県は、高い智恵の県。ですきに、街づくりにしてもなんにしても、智恵を絞りきらんといかんのであります。愛をもって。安易な発想とこなすだけの答申みたいながだけは厳に慎まんといかんがです。深い深い愛情をもって、高い智恵の県を目指す時やないろうかと思います。