大津、雲門寺、港、鹿児、白太夫神社と高視さん〔2635〕2010/07/03
2010年7月3日(土)雨
雨の一日になりました。朝も蒸せましたね。湿度がこじゃんと高いです。
昨日、松本白太夫さんが大津までやって来て亡くなった、という話を徳永千規さんの本に書かれちゅうことを元に検証してみました。
実は、白太夫さん、その実在についても諸説あるのでございまして、謎に包まれちゅう人物。まあ、実在はしちょっともらいたいところですな。で、79歳の高齢で讃岐から12月の四国山脈を越えてやって来たという話はエイとしましょう。
しかし、迷うて偶然たどりついた大きな寺、雲門寺で亡くなったとされる話は実際問題どうなんでしょうか。大津、岩崎の雲門寺は、あの正面の山にあったといわれます。山裾には白太夫神社が鎮座し、その拝殿前から山を登っていくと白太夫さんの奥津城(お墓)と伝えられる墓所がありまして、ひまわり太郎も以前地元の郷土史家さんに連れて行ってもろうたことがあります。
白太夫さんがやって来た当時は古浦戸湾の時代で、高須の界隈も海でして、五台山(大島)、葛島、田辺島とかは浦戸湾に浮かぶ島やったというお話はびっしりしちょります。で、今の南国市国分界隈に国府があり、土佐の中心地でした。都会との連絡交通手段はおもに船。で、大津の港が、土佐の表玄関というても過言ぢゃあございません。その港、紀貫之さんも出航したとされる港は、あの橋の向こうくらいやったとされます。つまり、雲門寺は、その港に隣接する山にあった訳で、そこへ宿泊したということは、やっぱし船に乗ろうとしちょったと考えるがが自然。
道真公の嫡子、菅原高視さんが住みよったがは潮江の現高見山の麓ですきに、当時の広い浦戸湾が広がる状況で歩いて行くがは大変。こじゃんと遠まわり。この写真右手は鹿児(かこ)という地区で、当時、水夫(かこ)が住んじょったエリアということでもわかるとおり、船は頻繁に往き来しよったでしょうきに、潮江までは船で行こうと考えるがが常識。さて、真相やいかに、ですな。
ところで、土佐介に任ぜられちょった菅原高視さん、何故、潮江というこれまた土佐の中心地とは離れた所に住んじょったがでしょうか。父に連座しての左遷ということで、拗ねちょったがでしょうか。監視の目があったがでしょうか。これもまた調べてみたい謎ではあります。