はりまや通りちなんぜよ〔2616〕2010/06/14
2010年6月14日(月)曇っちょります
ここは夜明け前、4時半過ぎのはりまや橋交差点。まだ車もほとんど通らず、静かなたたずまいの交差点。南東の、例のパチンコ屋さん建設予定地前から北西方面を撮影してみました。この南北の電車通り、この標識によりますれば「はりまや通り」という名称らしいですけんど、皆さんご存じですか?ひまわり太郎は知りませんでした。
さて、正面のホテルが西鉄イン様で、その隣がお菓子の浜幸様本店。その向こうがはりまや橋でございます。
さて、はりまや橋で有名な純信お馬の物語の主人公、純信さんは、事件後、愛媛は川之江で寺子屋の師匠さんをやりよった事までは判っちょりますが、その後どうなったかは諸説あって不明のままでした。昭和58年、あの高知で一番大きなお菓子メーカー浜幸様の先々代、浜田麟一様が、高知新聞に投書をしました。昭和44年頃、松山へ行きゆう途中の愛媛の久万町で交通事故に遭い、入院しちょったところ、同室の方の奥さんが純信の孫と名乗られたというお話。それを見た土佐市の郷土史家矢野さんが、その浜田さんと同室やったという人物の住所を調べて愛媛県の美川村へ調査に行き、こじゃんと熱心に墓所とかを調べた結果、純信さんは川之江から変遷を経て愛媛の山中の美川村にたどりつき、一女を残して明治21年にお坊さんとして亡くなっちょったことがわかったそうです。その一人娘の孫が、浜田麟一さんと同室やった方の奥さんという訳で、孫ぢゃあ無うて曾孫になりますな。しかしすごい巡り合わせ。何がすごいというて、純信お馬の悲恋の舞台、はりまや橋の袂に本店を構えるお菓子屋さんのご主人が、偶然怪我をして入院した四国山中の病院で純信さんの曾孫さんのご主人と同室になり、それがきっかけで純信さんのその後が判明したという巡り合わせ。よさこい節にうたわれた恋の物語の後日談も、小説よりも興味深いストーリーになっちゅうのでありました。