はじめての荒神谷遺跡〔2565〕2010/04/24
2010年4月24日(土)山陰も晴れ
てな訳で、今日は山陰へ出張で来ちょります。鳥取、島根でお仕事を済ませた夕刻、ここへ寄りました。山陰で、まだ行ったことが無うて、どいたち行ってみたかった場所のうちの一つ、荒神谷遺跡でございます。ちなみにもう一つは隠岐。後醍醐天皇の足跡探訪など、いつかやってみたいですね。遠いですけんど。
荒神谷遺跡、やっぱし感動しました。弥生時代の遺跡で、とにかくまあ、その出土品が破格であることで有名。銅剣が358本(この発掘までに全国で出土しちょった合計が300本ちょっとですきに、その全部を合わせたよりも多い銅剣)、銅鐸6個と銅矛16本。
何故、ここにこんな大量に、しかも銅剣も銅鐸も銅矛も、という謎は、好奇心をこじゃんとかきたてられます。
出土のきっかけはこじゃんと偶然。昭和58年4月13日、広域農道工事で、件の担当者が、田んぼの脇で土器の破片を見つけたがが始まり。それ自体はたいしたことなかった訳ですけんど、それじゃあ発掘してみろうか、ということで大した期待もせんづくとに周辺を掘ってみたところ、7月12日に銅剣の一部が見つかって騒然、そしてスタッフを動員して発掘してみたところ、夥しい銅剣がでてきた、ということで大発見になった訳です。ドラマですな。
この谷は、出雲国風土記で神名火山として登場する、現在の仏教山から延びてくる谷。なにかが起きてもおかしゅうない谷な訳ですね。
農道はルートが変更され、この発掘現場はレプリカが並べられて発掘の模様が再現されて見れるようになっちょります。素晴らしい。太古の人々の息吹が感じられます。大量に埋められちゅうことについては、その銅剣の数がこの界隈の村の数に相当し、村々を束ねちょったことを意味する、とか、まあ、とにかく議論百出で面白いですよね。
この写真で、左側の、段々のついた板を上ったところに銅剣(レプリカ)が、右側の板を上ったところに銅矛(レプリカ)と銅鐸(レプリカ)が、発掘された時のまんまに置かれちょります。この谷で静かに発掘現場を眺めますと、大昔へのイマジネーションがかきたてられ、妄想が暴走するがを止めることはできません。ホンモノの遺跡の迫力です。