父養寺井と蔵〔2564〕2010/04/23
2010年4月23日(金)曇っちょります
今朝は野市。香南市になった野市町の、市街地からちくと北へ行った山裾。野中兼山さんが開鑿した「父養寺井」が流れます。この西には野市上井(うわゆ)と下井が流れますが、それも兼山さんの手になるもの。以前にもご紹介した通り、物部川から灌漑用水を引き込んだ平野は、野原やったところに市がたつほど豊かになったのでありました。
物部川は、山田堰からは山田南国界隈、そして高知市に至る平野も潤し、土佐の中原を実り豊かな土地に変えました。その偉大な事績がなかったら、幕末に活躍できるような力を持つことはできんかったかも知れませんな、土佐藩も。
こないだうち、潮江用水をご案内して下さった潮江雪太郎さんがおっしゃっておりました。農業用水、灌漑用水を川から引いた場合、用水の上流の方に、大きな蔵を持った大きな農家が多いとのこと。なるほど。妙に納得できます。
ここは野市の市街地から言えばだいぶ上流になりますき、左端に写っちゅうような蔵が結構見受けられます。
とは言え、物部川の水を利用する野市や山田、南国では、その水利を巡って藩政期からビッシリ争いが起きちょります。農家にとって、水を便利に潤沢に利用できるかどうかは生死に関わる大問題ですきんね。
そう言えば今思い出しました。吉川英治さんの私本太平記というのを少年時代に読みましたが、あの中で、楠木正成さんが河内の水分(みまくり)という所の悪党やったと書かれちょったと記憶しちょります。で、この地名の通り、水利権を押さえて勢力を拡大した武士やったがやないろうか、と書かれちょったか考えたかした記憶があります。水を押さえるには、やっぱし上流ほど有利な訳で、特に分水する場所を押さえ込んだら無敵ですな。それだけに、水路を造った藩としても、後々の運用で公平に豊かに、ということに心を砕いたことでしょう。