大内氏、細川氏、日明貿易、応仁の乱、一条氏〔2490〕2010/02/08
2010年2月8日(月)ちょっと雲が出ちょります
心地良い月曜の朝。自転車で、稲生から里改田、田村を通って出勤してみました。ここは田村城趾。城といいましても、ここにあったがは守護代細川氏の居館で、この西側から南側にかけての広大な土地に居を構え、土佐の国を統治しよった訳です。室町時代のこと。
現在はちくと盛り上がった場所に城八幡が祀られ、訪れるヒトもほとんどない静かなたたずまい。
開運!なんでも鑑定団という番組がありますよね。高知では、日曜日の午前中にやりよります。
昨日、なんとはなしに観よりましたら、応仁の乱の時代の大内氏関連の古文書実物がでてきて、大発見になっちょりました。いやいや、すごいもんが出てくるもんです。
応仁の乱、山名氏グループと細川氏グループが西軍東軍に分かれて大戦争をした訳で、土佐守護代の細川勝益さんはもちろん細川一族ですきに東軍の応援に行きました。その頃、日明貿易は、瀬戸内海の出口を押さえちょった、西軍の大内氏が牛耳っちょりました。細川氏も負けちゃあしませいで、こぢゃんと争いよった訳です。
で、土佐を細川氏が勢力圏に入れちょったことは、深い意味があります。つまり瀬戸内を通らずに、太平洋ルートで明や朝鮮や南に国々と貿易ができるきですな。
この居館の南は太平洋から入りくんできた港とラグーンが。以前、国の中心やった国府を本拠とせず、ここに居館を置いたがは、貿易に都合がよかったためと妄想されます。
応仁の乱後、細川氏は土佐での勢力を弱めました。そして入れ替わるようにやって来て、土佐中村の公家大名となていったがが一条氏。四万十川河口の下田の港も押さえました。もちろん狙いは日明、日朝、南海貿易。
それ以後、この界隈は歴史の舞台から退場し、このような静かな八幡様の森になっていきました。