朝倉合戦の重要な舞台〔2482〕2010/01/31
2010年1月31日(日)雨のち曇り
そんな訳で今日は朝から雨が降りよりました。せっかくの日曜日、観光客さんがどっしこ来てくれちゅう日曜日ですきに、晴れた方はエイですね。
夕方、雨もあがって西の空が沈む夕日で明るくなってきた頃、鏡川沿いから朝倉方面を走りに行っちょりました。
ここは神田(こうだ)。神田小学校の南。昨年、ここと河ノ瀬を結ぶ新しい広い道路が開通しました。その道路から西の空を眺めたところです。
正面に黒く聳える山、この山は、戦国時代末期、神田南城というお城があった山。戦国土佐では、一度だけ非常に重要な場面に登場します。
このにっこりでビッシリ書いてきたように、土佐の中原、戦国時代の決勝戦は、本山氏と長宗我部氏で戦われました。最初は圧倒的に本山氏が強く、浦戸湾の西から仁淀川にかけて、海から山まですべて支配下に置いちょりました。その後、岡豊の長宗我部さん、徐々に勢力を広げ、永禄三年(1560年)、本山氏の勢力にあった長浜城を攻めとってからどんどんと本山勢力圏を浸食していった訳ですね。
で、ついに永禄五年(1562 年)9月、本山氏の本拠、朝倉城界隈で天下分け目の合戦、今で言う朝倉合戦が繰り広げられたのでありました。それまで元親さんに押され気味やった本山茂辰(しげとき)さんも、嫡男の親茂さんと共にここで頑張ります。
長宗我部軍の本陣は、こないだご紹介した能茶山の神田城。ここに3000の軍勢を布陣して朝倉城に攻めかかろうとしましたが、反対に朝倉城から討って出た本山軍に攻められ、合戦2日目、総大将の元親さんも含めて討ち取られる危機に瀕しました。神田城は低い山の城で危険やと思うたがでしょうか、その南にある神田南城に逃げ込み、九死に一生を得たそうです。
その後長宗我部軍が盛り返し、本山氏は朝倉城から退去して本山へ逃げ、長宗我元親さんの天下になったがはご承知の通り。
この山、そんな大切な舞台になった山なのでありました。