夜明け前の美しい堀川〔2481〕2010/01/30
2010年1月30日(土)晴れちょります
今朝、夜明け前の堀川。鏡川大橋から撮影しました。
右手が昨日ご紹介した農人町で、左手が中の島。堀川は、こっから大鋸屋橋まで、高知市が運営する浮き桟橋がしつらえられちょりまして、プレジャーボートがどっしこ係留されちょります。
藩政期、この堀川には番所があり、お城下への出入りを見張りよりました。明治になると水上警察ができて、こぢゃんと船の往来が賑やかやったこの水路を見張りよりました。左手の中の島は当時は棒堤で、九反田に海南学校がありました。
藩政期末期には藩の殖産興業の中心、開成館があった場所。立志社、立志学舎ができた後、海南学校になった訳です。
正面、まん丸お月様の真下辺りには高瀬屋という旅館があり、そこが北海道開拓移民団、北光社の移民団募集事務所でした。坂本龍馬さんの甥、自由民権運動の論客で敬虔なキリスト者にして布教活動家、北海道開拓の中心人物、坂本直寛さんが、北光社の立役者。
お月様の右にホテル日航高知旭ロイヤル様が見え、その向こうに見える建物がかるぽーと。そこに、昭和5年、高知市中央卸売市場が開設されました。戦争で焼けて、青果部はなんと潮江天満宮境内に疎開したりしちょったそうですが、昭和21年に九反田へモンてきました。昭和42年に今の弘化台へ移るまで、あそこに市場があったので、この堀川も魚や野菜とかを運ぶ船でこぢゃんと賑やかでございました。
今はこのように静かなたたずまい。かるぽーと前で堀川は終わり、はりまや橋の下から大丸前につながっちょった川は埋められてしまいました。
あの堀川を復活させ、大丸前の池のカキ船でおきゃくをし、純信お馬の物語を語る三味線弾きのおばあが乗った舟ではりまや橋のしたをくぐるがを実現することが、妙げなハコモノを造る100倍、観光客さんは感動してくれるとひまわり太郎が思いゆうことは、にっこり読者の皆さんご承知の通りであります。