介良荘と源希義〔241〕2003/12/13
2003年12月13日(土)快晴です
昨夜は、南国市の後免で忘年会をぶちかましよりました。車で行って、後免のお店に車を置いて帰って来ちょりましたので、今朝はマラソンがてら車を取りに後免まで走ってきました。直線距離では10kmぐらいしかないので、もっと楽しもうと考えまして、五台山山頂経由、高知市介良(けら)界隈の史跡探訪、後免のお店、というコースで行って参りました。
高知市介良は、高間原古墳群という大昔の遺跡もあり、古代は気良(けら)郷として栄えました。中世には、源家ゆかりの荘園「介良荘」として記録に残る、由緒ある土地です。
源頼朝の父源義朝は、1159年、平治の乱で平清盛に破れます。13歳の頼朝は伊豆へ流され、その弟で3歳の希義(まれよし)は土佐の国、介良荘に流されて来ました。ここが源家ゆかりの荘園だったからでしょうね。
その後、1180年に頼朝が関東で挙兵しますと、弟の希義もそれに同調する疑いがあるとして、平家は、ここ介良荘に軍勢を差し向けようとします。源希義は、土佐東部の夜須に本拠を置く夜須行宗を頼って介良を出発、夜須へ向かいますが、途中の年越山で追撃をうけて敗死してしまいました。
その後の経緯はご存知の通りで、頼朝が政権を握ることになりました。そして、希義追善のために、地元の僧が希義を葬っていた場所にお寺(西養寺)を建て、祀ったのであります。
写真がその場所で、左に見える卵塔が、昔を物語っています。