野田城、南北朝、野田甚左衛門さん〔2408〕2009/11/18
2009年11月18日(水)秋晴れ!
昨日の雨もすっかりあがり、空は高く高く澄みわたっております。心地良い秋の一日。
ここは南国市の野田。土佐くろしお鉄道、ごめんまち駅の北東の方角。ここに城八幡がございまして、「野田城跡」という案内板がかかっちょります。目立たん場所にありますきに、気付いてない方も多いでしょう。
この城主は野田氏。長宗我部7代目の長宗我部兼光さんの弟、俊吉さんを祖とする、とありますき、鎌倉の頃でしょうか、ちなみに元親さんは20代目。南北朝の時代には、野田氏は、どうやら北朝方についたみたいです。
こっから東へ行った岩村に岩村城がありましたが、そちらは北朝方。こないだ、10月31日のにっこりでご紹介しました。そっから南へ下ると、入交氏の支配地になる訳ですが、入交氏は、深渕河原で北朝方の佐伯軍と戦うちょりますきにたぶん南朝方。いや、たぶん、この時期の豪族は一族を守る為に、一族の中でも南朝と北朝の分けたりしちょったがかもしれません。とにかく入り組んじょります。
野田氏の詰城はこの界隈にあり、この周りに屋敷や土塁や堀をつくって広い城郭になっちょったようです。完全な平地にあるお城。長宗我部元親さんの時代には、野田氏のご当主は野田甚左衛門さん。もちろん元親さんについて活躍しました。奥さんはなんと本山茂辰さん。元親に敗れ、朝倉城を焼き払うて本山へ敗走した本山茂辰さん。なかなか複雑な人間模様ですな。で、1592年、長宗我部の宿毛城番として宿毛へ行き、宿毛甚左衛門と名乗ったとか。
関ヶ原の合戦後、伊勢の藤堂家に就職しちょります。
甚左衛門さんが居なくなった後、ここにあったお城はどうなったでしょうか。今は城八幡だけ残り、あとは田んぼと民家だけが広がる野田の地。