明見彦山1号墳〔2393〕2009/11/03
2009年11月3日(火)ちくと冷やいですが良いお天気
今日はこの秋一番の冷え込みということで、ちくと冷やい朝になりました。文化の日。てな訳で、今日はゆっくりの出勤やったもんですきに、途中自転車でふらふらとたつくりました。
ここは明見彦山(みょうけんひこやま)古墳。電車通りを東進、清和学園前を越えてしばらく行くと、案内標識があります。山と山に囲まれた三角形の地。田んぼが広がっちょりますが、ここには竹の後(たけのあと)遺跡という、弥生時代後期の集落遺跡があります。その時代では、かなり大きい部類の集落。
で、その南西の山麓、ちょっとだけ上がった所に、明見彦山古墳群があります。6世紀後半の古墳が3つ。2号古墳は、今は埋もれてみることができませんが、1号と3号は見れます。3号は、個人の墓地が前にあって近づきにくいですが、1号古墳は、このように近づいて見ることができます。この1号古墳は、今年の8月2日にもご紹介した朝倉古墳や南国市の小蓮古墳とともに土佐の三代古墳のひとつ、と言われるもの。いや、なかなか大きい立派なものです。この上の巨石は長さ7.9mといいますきに、どうやって運んできたがでしょうか。
6世紀と言えば聖徳太子の時代ですけんど、土佐はどんな状態やったがでしょう。この古墳群の有力者は、この弥生集落の系譜を引き継ぐ者やったがでしょうか。それとも別からやって来たがでしょうか。
このしゅっと南の山が、高天原山。この名称からもわかるように、古い、信仰の山。当然、この山にも古墳群があります。
土佐は中央からとっと離れた未開の地。が、物部川流域に物部氏の香りがしたり、中村界隈にこぢゃんと蘇我氏の匂いがしたり、朝倉古墳近くの朝倉神社には大化の改新から白村江の戦いの痕跡があったりと、絶えず中央とのつながりがあったことも事実。この古墳に埋葬された人物は、この地でどのように勢力を持ち、中央とはどんなつながりがあった方ながでしょうか。
なかなか謎は解明できんでしょうけんど、想像したり妄想したりするだけで楽しゅうございます。出勤途上にこんなことができるがが素敵ですな。