錦兵団の司令部は、この上〔2364〕2009/10/05
2009年10月5日(月)曇ったり降ったり
今の季節、まだ真っ暗い時間に家を出て、会社到着の頃には夜が明けちゅう、てな感じになっちょります。ここは介良ですきに、空が徐々に明るんできゆうくらいでしょうか。
介良の、例の朝峯神社さんからちくと山沿いに南へ行った所に、この中央に写っちゅう碑が立っちょります。こっから山道を450m登っていくと、錦兵団の司令部跡がある、ということを刻んだ碑。錦兵団とは。
このにっこりでも、向山戦争遺跡とか、戦争末期に米軍の上陸作戦に備えた日本軍の戦争遺跡をご紹介してきました。
前浜界隈から米軍が上陸してくるがを想定して、武器も無いのに一般住民も駆りだしての防衛戦をするつもりやった日本軍。で、満州に展開しちょった四国出身の兵隊さんで構成される第十一師団を、昭和20年の4月になって、この界隈の米軍上陸に備えて、ここへ移動させてきたのでありました。その第十一師団が通称錦兵団。こっから登った山に、その司令部が置かれたという訳です。
出勤途中には、ちくと山登りはキツイですきに、今度日曜日にでも行ってみんといけません。どんなになっちゅうでしょうか。これも重要な戦争遺跡として、子ども達に伝えていきたい場所です。
朝倉の、今の高知大学の場所にあった第44連隊は、この第十一師団に属しちょりますきに、文字通り地元の部隊が地元の防衛をせんといかんなっちょった戦争末期。
この山がある鉢伏山はもちろん、そっから東へ延びる向山やら、その南の琴平山やら、稲生の南の山やら、その界隈に展開して、米軍上陸時には肉弾体当たり戦法で時間を稼ぐががその戦争方針やったらしいですきに、もし、あの日、戦争が終わっちょらざったら凄まじいことになっちょったでしょう、高知も。
米軍の計画では、10月末にここ、高知の海岸に上陸、それを陽動作戦にして11月頭に九州へ上陸、ということになっちょりました。ですきに、錦兵団は、ここで戦う予定やった訳です。
そんな司令部跡が、こっから登った山にあるのであります。