徳右衛門君記念碑、石灰、二期作〔2284〕2009/07/17
2009年7月17日(金)曇っちょります
まだ梅雨明け宣言が出てない高知だけあって、今日はまた曇っちょります。蒸せます。今朝は、五台山の北側の山裾を通って稲生を抜け、出勤。で、昨日、高知の石灰の恩人、徳右衛門さんのお話をしましたが、稲生の道路脇にその記念碑が立っちゅうがに気付きました。これです。
向こうに2つ並んじゅうのは、稲生の大地主で石灰産業発展に寄与した川崎幾三郎さんの顕彰碑と、稲生の石灰山の労働者から社会党の代議士になった井上泉さんの顕彰碑。その中でも一番大きいのが、この徳右衛門さんの記念碑。
昨日も書きましたが、徳右衛門さんが伝えた新技術を羽根村、柳屋の慶蔵さんが受け継ぎ、それが土佐の石灰工業発展の基礎になった訳です。で、他所の国では石灰を稲作の肥料に使われゆうことを知った入交太三右衛門さんが、土佐国内でもその使用方法を広めました。
南国土佐の強い日差しと温暖な気候に、稲生石灰の品質向上が相まって、土佐の稲作生産高は飛躍的に向上、幕末に活躍できる土佐藩の土壌をつくっていった、とも言えるがです。こう考えると、徳右衛門さんの功績は、すごいもんがありますな。
そう言えば、こないだ、介良のお話のなかで、土佐の二期作の発祥の地は介良である、ということを書きました。介良の南の岩屋という地区らしいがですが、そこは、この稲生の目と鼻の先。しゅっとです。稲生の良質石灰が、二期作発祥に大いに関係ありそうですね、こりゃ。
この記念碑の文字を揮毫したのは、高知出身の海軍大将、永野修身。太平洋戦争開始時の軍令部総長で、A級戦犯。「石灰頭司徳右衛門君」ですきに、ちくと上から目線が気になるところですな。