稲生の石灰はすごいがです〔2283〕2009/07/16
2009年7月16日(木)晴れ!
今朝の暑さは真夏のもの。昨日までの湿った暑さぢゃあ無うて、ギラギラとお日様が照りつける真夏の朝。高知は盛夏を迎えました。
そんな暑い朝、五台山の南側を通り、稲生(いなぶ)を抜けて出勤してみました、自転車で。稲生は、高知のヒトにとっては石灰の町のイメージ。石灰山の南、下田川との間に石灰工場が建ち並び、石灰の色で道路が白うなっちょります。
こないだうち、南国市田村で平安後期から国人領主として活躍しよったことが確実な入交氏の話をご紹介しました。入交神社もご紹介しちょりますね。
で、戦国末期には長宗我部元親さんの支配下に入った入交氏の子孫は、山内氏の時代、田村で郷士になっちょりました。その一族の一人、入交太三右衛門さんが、ここ稲生石灰で大成功して豪商「桜屋」を築き、今の入交産業さんにつながっちゅうのでありました。
ところで、入交太三右衛門さんが、稲生で良質石灰の製造に成功したがには理由があります。阿波の国に徳右衛門さんという石灰技術者が居りまして、新技術で良質の石灰を製造しよりました。その徳右衛門さん、お四国を巡りに出まして、現在の南国市下田で病気になり、そこで、昔ながらの方法で石灰を焼きよった地元の人に新技術を伝えたとか。阿波へ帰ると、他国に秘密の技術を伝えたということで罪人となり、室戸の羽根村へ逃れました。その羽根村の廻船問屋柳屋の手代に慶蔵さんという人物が居り、彼が、羽根へ逃げてきた徳右衛門さんから石灰製造技術を習いました。で、その慶蔵さんの所属する柳屋は、土佐藩から石灰製造の免許をもろうちょったので、入交家の桜屋はその免許株を買い取り、慶蔵さんから伝えられた徳右衛門さんの新技術を駆使して大発展したがです。
それまでの石灰は建築資材としての用途が主やったがですが、稲作の肥料とか土壌改良とかにも用途を拡大して販売したがも成功の要因。目の付け処が違うがですね。
写真は、早朝、ヒトの居ない石灰山の鉄階段をちょっと上らいてもろうて撮影したもの。朝日に輝く稲生。この工場で製造されゆう石灰の用途も、実は自動車の内装素材の練り込み材料に使われちょったりと、意外な分野で活躍しよったりするのでありました。稲生石灰恐るべし、なのであります。