筆山、潮江山、森氏、国沢氏〔2225〕2009/05/19
2009年5月19日(火)曇っちょります
今日は、ひまわり太郎の仕事部屋からの眺めをご紹介しましょう。ここは高知市の与力町。この部屋、南向きに大きな窓がありまして、これ以上ないくらいの陽当たり良さ。冬でも、晴れた日のお昼はポカポカになります。
正面の駐車場がひまわりパーキングで、向こうに筆山が見えよります。
あの筆山、潮江山と呼ばれる時代もあり、この高知の街の中心部をしゅっと見下ろすクにあります。戦国時代後期、今の土佐町森から出てきた森氏が、この山に潮江城を築きました。この本社から東へ行ってしゅっとのクに、鏡川の堆積でできた小高い部分があり、そこには国沢氏の国沢城がありました。
こないだ、土佐の戦国後期、戦国七雄に次ぐ勢力として「蚊居田氏」「千屋氏」「森氏」「国沢氏」が挙げられた、てな話をしまして、蚊居田城と千屋城の跡地をご紹介しました。残りの2氏の城は、この界隈にあったのであります。
戦国末期、森氏も国沢氏も長宗我部元親さんに降って配下となり、この界隈も長宗我部の支配下に置かれました。
南国の岡豊を本拠としちょった長宗我部さん、土佐を支配するにはこの界隈が良い、といゆことで、今の高知城のある大高坂山に本拠地を移しました。で、通説では、この城下が度重なる水害似悩まされ、仕方無しに浦戸城へ本拠をまた移した、てなことになっちょります。真相やいかに。
どうやら、秀吉の朝鮮出兵に参加したりと、海上での大規模輸送が必要となってきて、浦戸湾で小舟に乗り換えてやって来んといかん大高坂山では具合が悪い、ということになって、太平洋から大型船が接岸できる浦戸にお城をつくった、という説が有力になってきちゅうみたいです。
浦戸に本拠地が移ってからも、この大高坂山の城下につくられた街はそのまま残され、江戸時代になって山内氏が高知へやって来た後、その街は新しい城下町に組み入れられました。
浦戸は、大きな城下町をつくれるスペースがあ。