岡豊城、長宗我部氏の真実〔2189〕2009/04/13
2009年4月13日(火)晴れ!
昨日、100年近い歴史を誇る「土佐史談会」の総会がありました。で、総会後に歴史講演会がありまして、高知の中世史の大先生、朝倉慶景先生が、「長宗我部氏について」という演題でしゃべて下さいました。面白かったですね、さすがに。
今までの通説を覆すような様々な考証を、具体的に合理的に説明して下さいますきに、ホントに目から鱗。歴史研究に臨む態度として、その発想の豊かさと合理性には頭が下がります。
ここは国分川。正面の山が、長宗我部氏が本拠とした岡豊山。
長宗我部氏は、通説では秦の始皇帝を遠祖とする秦河勝の子孫、信州の秦能俊がこの長岡軍にやってきて、長岡郡の宗我部郷に住み着いたことをはじまりとする、てなことになっちょります。しかし!
ここは国衙のしゅっと近く。そんな重要な場所に外からやって来た者が住みつけるのか、とか様々な合理的な理由によって、そうではない、と喝破されちょります。で、長宗我部氏は元々古い古い在庁官人で、その後、鎌倉幕府によって地頭職を与えられたがぢゃお、という説を唱えられました。また、元親さんの祖先が土佐の戦国大名の大平氏、吉良氏、本山氏などに攻められて自刃、元親さんの祖父、元秀さんとその幼子、つまり元親さんの父の国親さんが、一条氏に助けられ、再び岡豊に復帰した、てな通説にも合理的な異論を唱えておられます。朝倉さん説では、大津の天竺氏やら山田氏やらの勢力が、勢力が衰えちょった長宗我部氏に攻め込んで滅亡寸前まで追い詰めたのを、潮江城の森氏の仲介で蓮池の大平氏に助けてもろうたがが事実、ということやそうです。他にも明快に通説をバッサバッサと覆していく講演は、こぢゃんと楽しゅうございました。
これが、歴史に対する正しい態度ですな。「土佐史談」で読んで、知っちゅう説ではありましたが、ご本人から直接聞くと、こぢゃんと迫力があって面白いですね。