松山、萬翠荘、他国からの支配〔2190〕2009/04/14
2009年4月14日(火)松山は雨ぞなもし
ここは松山。午前中、高知でお仕事をしちょいてからバスでやって来ました。高知も松山も雨模様。穏やかで暖かい春の雨。
ここは、松山市の中心部、県庁のしゅっと近くにある萬翠荘(ばんすいそう)。大街道と県庁の間を、松山城の山の方へちょっと登ったクにあります。松山城はぎっしりびっしりたつくりよりますが、ここへ来たがは初めて。雨に煙る山のなかにたたずむ洋館は、なかなかの雰囲気を醸し出しちょります。
大正11年、つまりひまわり乳業が創業された年に、旧松山藩主の久松伯爵が別邸として建てたものやそうです。
夏目漱石さんが旧制松山中学の先生としてやって来た際に住んじょったがは、このしゅっと横。
この建物へ上ってくる坂道の入り口に、坂の上の雲ミュージアムというこぢゃんとリグッた博物館があります。明治という時代の日本について、様々な展示がしちゃありますね。秋山兄弟と正岡子規さんの展示の他にも、色々とありました。その中に、維新に乗り遅れた松山、というコーナーがありました。慶応4年、佐幕派の松山は賊軍ということになり、新政府の命令で、一時的に土佐に接収されることになったのでありました。そのことを、こぢゃんと悔しそうに展示しちゅうがですね。時の藩主は久松氏。
そう言えば、戦国期には、この界隈の支配者河野氏も土佐の長宗我部元親さんに破れて支配下に入っちょります。2度も土佐の田舎侍にやられちゅう、伊豫の皆さんの心情は土佐の人間には想像できんようなものがあるがでしょうね。
土佐の歴史をみてみますと、他の国が攻め込んできて支配される、という経験がメッソ無いがですね。これは結構興味深いことやと思います。大和朝廷や天皇家、鎌倉幕府、室町幕府とかの支配下にいつの間にかはいっちょりますが、軍隊に攻め込まれて降伏して支配下にはいった、という経験ぢゃあございません。
他の国の歴史を見るとき、土佐の特異性が実感できたりするのでありました。