金比羅街道「一の燈籠」が活躍した時代〔2138〕2009/02/21
2009年2月21日(土)曇り後晴れ
ここは丸亀。
昨日、松山からやって来ました。昨夜高知までイヌルはずやったがですが、坂出の香川支店での打合せが長引いたもんですきに、丸亀でホルモンを食べて泊まることにしてしまいました。
ここは丸亀の港。ここからしゅっとのクに、安くて美味しいホルモン屋さんがあります。丸亀で泊まる際には、必ずここでホルモンを食べんといかんなっちゅうがです。皆さんも、ぜひご利用下さいね、林ホルモン。
で、今朝は朝から本社で打合せやったもんですきに、6時半に車で出発してモンて来ました。で、朝の丸亀の港を撮影してたのであります。
この燈籠は、昨年の5月にもご紹介しちょります。金比羅街道の「一の燈籠」。でかいです、まっこと。天保の時代、丸亀の金比羅宿の主人、柏屋団次さんたちが江戸へ行って、千人講をつくってお金を集め、つくったという巨大な燈籠。青銅製で、天保時代に4つつくられたそうですけんど、戦争中に金属供出ということで取り壊され、これだけ残ったそうです。ですけんど、残されただけでもたいしたもんですね。高知城の山内一豊騎馬像とか、青葉城の伊達政宗公騎馬像とか、かなりシンボリックな青銅像が供出になっちょりますきに、この燈籠が残されたという事実は、これがこぢゃんと大切なものである、という認識があったことが伺えます。
青銅の巨大な構築物で、供出にならんかったがは桂浜の坂本龍馬像とこの燈籠やないでしょうか。
藩政期、本州からの金比羅参りの船はここに着き、善男善女はここから歩いて金比羅さんに向こうた訳です。
調べてみますと、高松から琴平までことでんの電車が開通したがは昭和2年。ことでんが、金比羅参詣のために早うから開業しちょったがかと思うたら、どうやらそうぢゃあないみたいです。何とですね、明治22年、丸亀琴平間に、讃岐鉄道が開通しちょります。こりゃあ早い。四国で一番早い鉄道は、松山と三津の間の伊予鉄で明治21年ですきに、その次。どう考えても、金比羅参り用の汽車でしょうな、こりゃ。丸亀琴平間ですき。丸亀に上陸して、そこから金比羅参り、というルートに合わせてつくられたがでしょう。丸亀高松間に汽車が開通したがは明治30年。で、徐々に高松からのルートが増えていったがでしょうか。それまで、この燈籠は、やっぱし「一の灯籠」であり続けた訳ですね。