新田の朝、鏡川の朝〔2071〕2008/12/16
2008年12月16日(水)今朝も快晴!
昨夜、金星と木星が美しい夜空をお届けしましたので、今朝は夜明け前の南空。ここは鏡川河口、鏡川大橋北詰からちくと西へ行った堤防の上。そこから、南の新田(しんた)方面を撮影してみました。左に、大橋のアーチが美しゅうに見えよります。
この対岸、藩政期には田んぼの広がる地帯で、川沿いに民家が散在しちゅうような場所でした。このもうちょっと西、上流の南岸には水神社が、その上流にはお稲荷さんが、その上流にはお地蔵さんが鎮座されちょって、川や稲作の神様が溢れちょったことがわかります。
向こうに見えるは、南嶺の山々。右端の一番高い部分が宇津野山のてっぺん。昨年の今時分、朝に晩にあの山界隈をたつくりよりました。にっこりのバックナンバーを見ていただければ、どれっぱああの辺をたつくりよったかおわかり頂けると思います。
この正面の山の麓が西孕(にしはらみ)。その西が六泉寺。その、山麓界隈にがヒトが住みついちょりまして、集落があるがですが、この対岸の集落からあの山麓の集落までの間は、一面の田んぼでした。いや、段々と田んぼがつくられていった訳で、この対岸の地名「新田」からわかるように、藩政期、どんどんと開発されていった地域なのであります。つまり、湿地、荒れ地が多かった地帯。
明治からこっち、潮江から桟橋界隈は高知の穀倉地帯で、どんどんと農地が開発されていった訳ですが、戦後は、宅地化がこぢゃんと進み、今や住宅やマンションが密集したエリアに変貌しました。田んぼは、ホントに少のうなりましたね。
田んぼしか無いのに、港に隣接しちょった地区、ということで、県外へ移出するものをつくる工場が戦前戦後にいっぱいできました。高知で最初の工業地帯。ですけんど、あっと言う間に宅地化がすすんで、誘致工場であった港界隈の工場も、肩身が狭うなってきちゅうらしいですね。