田村城趾、錆びた案内板〔2052〕2008/11/27
2008年11月27日(木)曇り
曇って、ちくと冷えびえしますね。お日様が出ると、冬でも日中は暑いくらいになる高知ですが、お日様が隠れると冷やいです。
今朝も南国工場。工場から南西へ行った、空港の滑走路の近くに、この古びたお堂があります。ご覧のように、少しだけ地面の盛り上がった場所に、緑から黄色に変わりつつある大きな銀杏の木に守られて鎮座するこのお堂は、田村城趾とされる場所に建てられちょります。何度かご紹介した田村城趾は、南北朝時代の後、14世紀後半に、守護細川頼之さんによって派遣された守護代、細川頼益さんから4代が本拠とした場所。
ここに守護代屋敷を構え、居館のまわりに家臣団を住まわせて街を形成、この地から、土佐一国を支配しよったという訳です。応仁の乱以降、細川氏は京へ帰ってしまい、土佐は戦国の世となって群雄入り乱れるのでありますが、それまではここが土佐の政治の中心地。平安の世の中心地は国府界隈やったですが、武士の時代になってここに移って来たということです。
この田村の地は、土佐の国最大の弥生集落遺跡のある地域で、太古の昔より肥沃な土地でございました。中世、再び土佐の中心地となりましたですけんど、その後は戦国の世となり、土佐一国の政治の中心は長宗我部氏の岡豊、大高坂、浦戸へと移って山内氏の高知城に至ったのでありました。
この中世の土佐の政治の中心地は、今は横の道路からも目立たないお堂があるばかり。目立った案内板や説明版もなく、ひっそりとたたずんじょります。と、撮影しよったら、脇の、木切れとかが無造作に置かれちゅう場所に、昔案内板やったものが転がっちゅうがを発見。写真右下隅の茶色いオブジェがそれ。赤錆びた板には、細川頼益さんや、4代目で京へ帰った細川勝益さんのことが書かれちょりました。
兵(つわもの)どもの夢のあと。ここが中世の土佐の中心地とは、誰も気付きません。