第六小学校と清水真澄さんと電車通り〔1992〕2008/09/28
2008年9月28日(日)曇っちょりました
今日は涼しかったですね。もう秋。と、思いよったら沖縄の向こうにかなりガイな台風が居るみたいで、まだ夏になったり秋になったりのニッポン列島でございます。
ここは高知市内、第六小学校の正門前。この門柱、なかなか由緒ありそうで素敵ですね。高知の中心部には、ひまわり太郎が卒業した追手前小学校、Jr.2号が通う新堀小学校、そしてこの第六小学校と第四小学校があります。色んな分類の仕方がありますけんど、普通この4校が高知市の中心部の小学校とされるみたいですね。いや、異論はあるとは思いますが。
追手前小学校と第六小学校はしゅっと隣ですきに、ひまわり太郎が子供の頃は結構ライバル意識を持っちょりました。ケンカしたこともあったですね。今から考えたらかなりガイですけんど、石のクラシあいもしたことがありました。懐かしい想い出。
ここから南へ行くと鏡川に架かる柳原橋。当時はそんな立派な橋は無く、数十メートル上流に沈下橋がありました。昭和初期、高知市の土木課の吉岡技師が、清水真澄課長と一緒につくったという日本で最初の増水時川に沈む橋、沈下橋。
そう言えば、ひまわり太郎の記憶によれば、その高知市の土木の神様、清水真澄さんは、戦争で焼け野が原になった高知の町の復興のために退職しちょった高知市へ再度実を捧げ、現在の高知の街の姿をつくりあげましたが、その、復興計画を練ったが、ここ第六小学校やったですよね。市役所やらは全部焼けてしもうて、この小学校を間借りして業務しよった訳です。この場所で、当時は広すぎると議会の大反対におうた現在の片側3車線の電車通りを決めたり(計画では片側4車線。議会の大反対で今の幅に縮小されたがは残念やったですね)したのであります。