官道、南海道の遺構確認〔1984〕2008/09/20
2008年9月20日(土)快晴!
台風一過。こぢゃんと見事に晴れ渡りました。暑い一日になっちょりますが、空は秋らしい澄んだ青。心地良うございます。
今朝の高知新聞に、南国市の士島田(ししまだ)遺跡で、奈良時代から平安時代の官道「南海道」の遺構らしきものが確認された、という記事が載っちょりました。南海道の遺構とすれば、県内初確認やそうです。楽しいですな。
で、早速今朝、南国工場の帰りにちくと寄っちょりました。今朝はブルーシートがかぶせられちょりましたが、それでもその官道の側溝ははっきりとわかります。
この左右の側溝の挟まれちゅう部分が道。道幅6mといいますきに、なかなかの広さ。律令制度が整備されていく中で、中央集権が進み、全国の国府をつなぐ幹線道路が中国に倣うかたちで整備されていきました。規格は道幅6mの、出来る限り直線にした道路。で、路面の一部には、小石を敷いた地下排水路らしきものも見つかったということで、想像を超える立派な道やったことがわかります。
ここからこの道を北へ延ばすと、紀貫之さんも住んだ国府にまっすぐ突き当たります。南へ延ばすと、ご覧の、二つの山の間の高台を抜け、東工業高校の西を通って船岡山に突き当たります。一般の説では、東工業の南から、まっすぐ東へと南海道は続いちょったとのこと。成る程。
10世紀くらいまでは利用されよった広い広い南海道。いつまでキチンとした道路やったがでしょうか。ここからあの山の間を抜け、まっすぐ行って船岡山の手前を右折してしゅっとのクに、介良荘があります。12世紀、源頼朝さんの伊豆挙兵に呼応して頼朝の弟の源希義さんが兵を挙げたがが介良。で、この写真の左の山の東の山裾で、平家方の軍勢に追いつかれて討たれちょります。どのルートを通ったがでしょうか。この南海道の道がまだ広く整備された状態やったら、まっすぐ国府方面へ馬を走らせたかも知れません。追っ手に追いつかれそうになって、幹線からはずれて山裾の方へ逃げ、そして討たれた、ということも考えられます。
昔の意外に立派な道の遺構が発見された、ということは、色んな妄想を暴走させてくれて楽しいです。