新堀川と江の口川の分岐、昔刎ね橋がありました〔1968〕2008/09/04
2008年9月4日(木)快晴!
こぢゃんと晴れ渡った、心地の良い朝。ここは新堀川の北の端っこ。
この水門は、江の口川から新堀川への水門。新堀川から北向いて撮影してみました。その水門の向こう、東西に江の口川が流れよります。このにっこりが始まったばっかしの2003年5月1日、その水門の所に架かっちょった刎ね橋からこちら向いて撮影した写真があります。当時、藩政期の頃の名前がそのまま残った「刎ね橋」という橋が川の分岐のところに架かり、新堀川は静かなたたずまいを見せちょりました。その後、誰が考えたのかわからんなった都市計画の進展によって、新堀川の上に広い大きな道路がつくられようとしよります。
反対運動はかなり盛んにおこなわれゆうがですけんど、工事はどんどんと進みゆうがですね。
今朝、行ってみましたら、江の口川の北からこの水門の所に、大きな橋ができちゅうがにビックリしました。いやいや、もうできちょったがですな、この橋。道路幅は広いです。で、このまま新堀川の上を進んで新堀小学校のところまでの工事は、もうこれは止まらんでしょうね、この工事の具合ですと。わかりにくいですが、その橋の茶色い欄干が写っちょります。
新堀川は、藩政期、当時大川と呼ばれた広い川やった江の口川と堀川を結ぶ水路として掘られた新しい堀川。堀川が縦堀ということで新堀川が横堀。新堀川沿いには貯木場もつくられ、城下の産業の集積地となっちょりました。
その後、物流の幹線として利用された明治大正の頃から昭和になり、戦後は水路としての役割を終え、江の口川上流の高知パルプの排水によるものすごい汚染でドブ川になりました。高知パルプがなくなって江の口川が徐々にキレイな川に戻ってきて、新堀川もずいぶんとキレイになりました。汚かった当時、「臭い物にふた」ということではりまや橋界隈の堀川も埋められ、ここ新堀川にも道路をつくって暗渠にする計画が建てられました。どんどんと自動車の交通量が増えよった時代です。
時は巡り、自動車の増加は止まり、新堀川はキレイになり、アカメやシオマネキが生活する自然環境となって、川に蓋をする計画だけが残りました。