鏡川の河原が広かったがはこの界隈〔1966〕2008/09/02
2008年9月2日(火)晴れ!
9月ですけんど、まだまだ暑い日が続きよります。ここは鏡川、潮江橋北詰の西側から天神大橋方面を眺めたところ。明治26年の河田小龍さんが描いた市街地図によりますと、この界隈、今の川幅の半分くらいまで河原になっちょりますね。この辺の葦原はその名残ながでしょうか。
寛政4年(1792年)頃の城下町図によりますれば、この界隈は職人街の掛川町や、魚屋、油屋などが多かった弘岡町から南へ出てきた河原で、川沿いは唐人町。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮へ出陣した長宗我部元親さんが、朝鮮から連れてきた武将、朴好仁さん一族とその関連の皆さんの子孫が代々住んだので唐人町。
豆腐商いの特権を山内氏から与えられちょった、というお話は、このにっこりでもビッシリギッチリしちょります。ですきに、ずうっと豆腐屋さんが並んじょったと思われがちですけんど、その1792年の城下図によりますと、豆腐屋さんがずらり並んじゅうがは郭中の南の川沿い。つまり、前方右手に白いグランドホテルさんの建物が見えますが、あの辺りから現在の山内神社の辺りまでの川沿いの唐人町が、豆腐のメッカ。グランドホテルさんからこっちの川沿いには、魚屋さんが2軒と紺屋さんが1軒あるだっけですね。グランドホテルさんから天神橋の間だけでも20軒を超える豆腐屋さんがあったがに比べたら、ここは静かな川沿いやったことが想像されます。
昭和26年の地図では、河原が広うなっちゅうがはこの現潮江橋と天神橋の間辺り。天神橋の西は結構せばいですきに、こないだうち紹介した高知の城下の夏の娯楽、河原へ涼みに出てきて「のえくり」とかを楽しんだがは、ひょっとしたらこの辺りの河原やったがでしょうか。丁度、豆腐屋さんが並んじゅう真ん前ですな。
河原でやるおきゃくのアテには、この豆腐屋さんの豆腐とかおからとかが利用されたがかも知れんです。