河田小龍さんと長岡謙吉さんとなんちゃってバスターミナル〔1946〕2008/08/13
2008年8月13日(水)晴れ、時々曇り
今日は花火。高知市の鏡川の花火。雨が降らざったらエイですけんどね。
ここははりまや橋の東、土佐橋のたもと。この左手が、16億円のバス「降り」場。以前、はりまや橋の下を川が流れよったときは、ここも川でした。こないだのよさこい期間中、ひまわり太郎Jr.2号が、ここのバス専用駐車場に観光バスが1台停まっちゅうがを見て「始めて見た!」と感動しちょりました。
この右手の碑は、幕末から明治に活躍した絵師にして文化人、河田小龍さんの生誕地を記念するもの。
ここから30m南で、河田さんは生まれちょります。アメリカから帰ってきたジョン万次郎さんをこの家に呼んで寝泊まりさせ、アメリカのことを詳細に取材して「漂巽紀略」という本を書き、これが幕府に伝わって幕末日本の貴重なアメリカ情報になったがは有名な話。
坂本龍馬くんは、河田小龍さんに世界の話を聞いて、土佐から飛躍していったがですきに、日本の夜明けにとってこぢゃんと重要な役割を果たしたががこの河田さんなのであります。
で、龍馬さんは、小龍さんから洋船の重要さを聞いて、後の海援隊結成へとつながっていった訳ですが、若き龍馬に洋船をどうしても購入せんと日本は攘夷も開国もない!と説いた小龍さん、操船技術を学ぶ若者は私が送り込んであげよう、ともおっしゃったそうです。河田小龍さんの門下には、長岡謙吉くんなどが居りまして、龍馬と一緒に日本の未来を切り拓いていったのでありましたね。
海援隊士、長岡謙吉さんの家は、このしゅっと南。この異才は、龍馬と共に活躍し、あの「船中八策」の文章を実際に書いたがは実は彼。もちろん発想は龍馬ですが、それを文章にしていくがは彼の役目でした。後藤象二郎さんが提出して新政府発足のきっかけとなった「大政奉還の建白書」の草案を起草したがも実は長岡謙吉さん。なんちゃってバスターミナルの横には、実に偉大な人物の生誕地が並んじゅうことを、このバスターミナルをつくった皆さんはご存じながでしょうかね。