潮江橋と天神橋と金太郎さんと馬太郎さん〔1910〕2008/07/08
2008年7月8日(水)晴れ!
今日も暑うございました。
ここは鏡川、潮江橋の下。こないだうちから、谷師匠の鏡川に関する文章からのトピックをご紹介しよりますが、今日もいってみましょう。
向こうに見える赤い橋が天神大橋。いや、普通に天神橋と呼びよりましたが、現在の大きい立派な橋に架け替わってから、天神大橋と呼ぶようになりました。藩政期初期、1622年に、川の南側にあった山内家の菩提寺、真如寺に山内のお殿様がお参りするのに架けられた橋。ですきに、真如寺橋と呼ばれよりました、そのうちに大橋とも呼ばれ、時代が下って天神橋と呼ばれるようになったとか。
お城下を流れる部分では、この天神橋が唯一の橋。以前にも書きましたが、北の山から長宗我部の残党が攻め込んできたら、高知城からこの橋を渡って、橋を落としてから筆山に逃げて立て籠もる、または、鷲尾連山方面から海へと逃げて体勢を立て直す、という戦略やったと考えられます、ですきに、菩提寺の真如寺があり、筆山には歴代の墓所もつくられたという訳ですね。
ここ潮江橋が架けられたがは明治36年。天神橋より、この場所に丈夫で大きな橋を架ける方が、県都の機能としては重要、との潮江村長さんの意見を取り入れ、はりまや橋と桟橋を結ぶこの地点に潮江橋が架けられたのであります。で、天神橋は取り壊されました。が、この潮江橋の場所で、潮江橋ができるまで粗末な板橋をつくって渡賃を徴収して商売としちょった大阪金太郎さんと熊沢馬太郎さんというおんちゃんが、天神橋の跡へその板橋を移設することを願い出ました。で、許されて、あの天神橋の地点で1回5厘を徴収して生業としよったそうです。昭和2年、県が天神橋を架橋するまで続けられたそうですね。今からは想像できん、色んなドラマがこの鏡川、天神橋潮江橋界隈に繰り広げられよったのでありました。