上岡八幡宮の鳥居の篆書〔1856〕2008/05/15
2008年5月15日(木)今日も南国は晴れ!
今日は5月15日。
昭和7年の今日、海軍将校のしでかした五・一五事件が発生しました。犬養毅首相が殺される訳ですが、この事件で戦前日本の政党政治は終わったとされちょりますね。軍部の暴走が始まり、悲惨で不幸な時代へと突入していった、その始まりとなった五・一五事件。あの後、日本は、マスコミもこぢゃんと煽る中、圧倒的民衆の狂騒によって、勘違いの被害者意識の中で世界がら孤立して行ったのでありました。当時、軍部暴走を煽ったがが大マスコミやったことは決して忘れたらいかんでしょうね。一番怖いがは力を持ったマスコミということを。
てなことを言いつつ今朝は南国工場。工場近く、物部川沿いの上岡八幡宮の今朝の風景です。この写真は、参道入り口にある鳥居の柱。向かって右の柱には、ご覧のように篆書で「奉献 総氏子中」と刻まれちょります。向かって左の柱には、楷書で奉献された年月日が刻まれちょりました。嘉永4年やそうです。
県内の、色んな神社を見てみましても、こうやって篆書で文字が刻まれちゅうがはメッソ見ませんですね。こうやって見てみると新鮮味があって、妙にハイカラな感じがします。ハイカラなデザインっぽいです。
が、篆書は、実は古い古いルーツを持っちょって、漢字の草創期にもつながっちゅう字体なのでありますね。漢字は、殷の時代に発明されちょりますが、その頃の文字は甲骨文字。そして、青銅器などに刻まれちゅう文字に変遷し、それが隷書やら楷書につながっていったがやそうです。この篆書、よく見てみると、硬いものに刻むがに、ノウが良さそうですね。ですきに、印鑑とかにも今でも利用されゆうがですが、筆とかで書くがにはメッソノウが良うないみたいです。で、隷書とか楷書とかが工夫されてきたがでしょうか。