因幡の国、鳥取城址、久松山〔1821〕2008/04/10
2008年4月10日(木)鳥取の朝は雨が降っとっとり
そんな訳で今朝は鳥取。鳥取県へ来た際には、普段は米子に泊まるがですけんど、昨夜は鳥取市に泊まっちょりました。大阪から特急スーパーはくとでやって来たきですね。この「はくと」、何の意味かも気にしちょらんかったですが、鳥取の観光パンフを見よって気付きました。ここは因幡の国。因幡と言えば白ウサギ。漢字で書くと白兎。音読みすると「はくと」。成る程。知っちょりました?
いっつもは伯耆の国に泊まりゆうがですが、昨夜は因幡の国、白兎の国やったという訳です。
さて。今朝はまだ昨夜の雨が残っちょりまして、その心地良い雨の中、ベショベショになりながら初めての鳥取をたつくって来ました。駅前から北へまっすぐ走ると、県庁に突き当たります。その県庁の北西に、かなり傾斜の厳しい山がそそり立っちょりまして、これが久松山。鳥取城のあった山。標高263mという、結構な山。中世の頃、山名氏の出城として始まったそうですが、色々様々な紆余曲折を経て、戦国終盤には毛利重臣の吉川経家さんが守りよりました。で、織田信長の武将、羽柴秀吉さんが1581年に大軍で攻めかかり、黒田官兵衛の作戦、兵糧攻めで追い詰めました。史上有名な「鳥取籠城」ですね。これほど悲惨な籠城もなかった、と言われる凄まじい飢餓籠城。ちくと書けんような悲惨な飢餓籠城やったそうです。
下から見上げるとそうでもないですが、登ってみるとかなり急峻な山で、戦国のお城としてはかなり難攻不落のお城やったことがわかります。毛利の援軍を待ち続けた吉川さん、最後は自分の自決と引き替えに家臣や民衆を救うた訳ですが、織田軍、羽柴軍のすさまじさがよくわかるお話でした。
しかし263mの頂上、天守櫓跡までの急な石段、一気に駆け上がるにはちくとハードでした。たっすいことに、途中からは歩いて登ってしまいました。それでも心臓バクバク。このてっぺんからは鳥取の市街、そして日本海まで見晴らせる、すばらしい景観。戦国の世の、戦略上の重要な山やったことがよく理解できます。そしてここで籠城する、ということも大変やったことがよくわかります。
史跡とか旧跡とかは、やっぱし現地へ自分の足で行ってみんといかんですね。