すべては教育から始まりました〔1772〕2008/02/21
2008年2月21日(木)今日も晴れ!春の陽気!
今日の明け方、西の空低く、まん丸いお月様が大きく大きく輝きよりました。鏡川にその姿を映し出して、それはそれは幻想的に美しかったですね。その写真を撮影しちょったがですけんど、今日の話題はこれにしました。
今日の高知新聞、読者の広場に、酒井南嶺さんのことを投稿されちゅう方がいらっしゃいました。酒井さんは、幕末から明治の始めに活躍した偉大なる書家にして教育者。高知の西端、宿毛出身で、若くして全国で学問を修めつつ見聞を広め、宿毛に戻って日新館などで宿毛の若者達の指導にあたりました。
その門下生には、実業家にして政治家にして民権運動の闘志にして吉田茂さんの父親、竹内綱さんや、早稲田大学建学の母と言われる小野梓さん、初代北海道庁長官の岩村通俊さんなどなど、ものすごい顔ぶれ。とにかく偉大な教育者であったことが解ります。
その竹内綱さんと、長男の竹内明太郎さんの胸像が、高知工業高校の玄関両脇に建てられちゅうがをご存じでしょうか。竹内綱さんの五男が吉田茂さんですが、長男は明太郎さん。父と一緒に、全国の鉱山開発などで成功して蓄財、その財産を、日本の工業発展の為に投げ打ったのが竹内明太郎さん。海外の事情を見て、これからの日本は工業を盛んにするしかない、という信念で、奔走されたのでありました。
で、若手の優秀な人材に海外留学させたりして私費で養成、工業系の大学を設立しょうとしよりましたが、早稲田大学が理工学部をつくろうとしゆう事を知った明太郎さん、その人材をそっくり提供、何と、何年かは給料までも私費で負担して、その礎を築いたがです。
それから、高知へモンて来て、父の綱さんと一緒に高知工業学校をずべて私費で設立、高知の発展にこぢゃんと寄与しました。この胸像は、その業績を顕彰するもの。工業高校の生徒さんたちはご存じながでしょうかね。
ちなみに、小松製作所をつくったのも明太郎さんということは、あんまし知られちゃあしませんね。
とにかく、すべては教育から始まる、ということを良く知っちょった竹内明太郎さんであり、遡ると酒井南嶺さんに行き着くのでありました。