潮江天満宮の玉垣、近森寅治さん、安岡又三郎さん〔1765〕2008/02/14
2008年2月14日(木)晴れちょりますね
今朝は晴れて冷えました。まだまだ冬は続きます。
一昨日のにっこりで、潮江天満宮の玉垣に有名人物のお名前が刻まれちゅう、というお話をしましたので、今日はその続き。パッと見回して、ひまわり太郎でも知っちゅうお名前をしゅっと見つけたがが、こないだの服部久吉さんと、この近森寅治さん。実は、このにっこりでも2006年8月16日にご紹介しちょります。筆山の麓、塩屋崎の石段登り口にある、近森寅治さんの墓地入り口を示した石の標柱ですね。そこにも書きましたが、近森さんは「医は仁術」を地でいった、すばらしいお医者さんやそうです。
高知新聞社の高知県人名辞典に詳しゅう載っちょりますね。明治42年のペスト流行時には大活躍で、近森さんが居らんかったらかなりひどい流行になったがやないろうか、といわれちょります。
市会議員を20年つとめ、市会議長も13年つとめたという政治家でもございました。独立の志を持って貰うために、遺産を子孫にメッソ残されん、ということで全財産、不動産を高知市に寄付したのは有名なお話。なかなかすごい人物です。
この参道脇は、色んな時代の様々な玉垣がございます。その中でも、この一角のものには寄進された金額とお名前がキチンと刻まれ、また、有名人も多いみたいです。一昨日申しましたように、たぶん大正期に寄進されたもの。便利な便利な「高知県人名辞典」で調べてみたら、この写真右端にチラリと写っちゅう安岡又三郎さん、明治から大正期にかけての教育者で、新潟県立高田中学とか徳島県立徳島中学とかの校長を歴任されちゅうそうです。旧香我美町の山北出身とありますき、あの山北の安岡一族ながでしょう。武市半平太さんの腹心やった安岡覚之助さんやその弟で天誅組に加わって処刑された安岡嘉助さんなどなど、こぢゃんと多くの偉人を輩出した山北の安岡家。無くなった先代のご当主が、ひまわり太郎の伯父の会社の先輩やったこともあり、お宅へお邪魔したことがあります。県指定の文化財にも指定されちゅうその古い立派なお屋敷は、すごかったです。そこで、覚之助さんと嘉助さんのお父上、安岡文助さんが書かれた日記、通称「文助日記」を見せて頂きました。歴史的な価値の高い、素晴らしい綿密な日記で、感動したことを覚えちょります。そのお屋敷を守る、こぢゃんと品の良いおばあちゃまが、ひまわり太郎の伯父と、一族の男性の「章ちゃん」のことを話しよりました。このおばあちゃまの従兄弟かなにかになる「章ちゃん」は、後で、あの、作家の安岡章太郎さんと聞いてビックリしたことを思い出します。