小雪舞い散る堀詰〔1764〕2008/02/13
2008年2月13日(水)早朝は小雪が舞いよりました
小雪舞い散る堀詰。電車通りの夜明け前です。ベシャベシャしたみぞれみたいながぢゃのうて、フワフワした軽い雪。高知市内に雪が降るがは、年に1~2度。積もることはめったにありません。にっこりのバックナンバーで調べてみましたら、高知市内の雪をご紹介しちゅうのは2005年2月1日界隈と同じ2005年の2月18日界隈。あの年はよう降りまして、よう積もりましたですね。写真を見てビックリしました。
今朝の雪は朝の内にあがりまして、今はもうお日様さんさんです。
ここ堀詰は郭中、つまり武士の住むお城下の東端。ここから東が堺町で、戦国末期に商人の街としてこぢゃんと栄えた泉州の堺から呉服商人が移住して来て住んだ町。この堺町と、この北側の京町が、土佐藩から呉服商いの特権を与えられて、豪商目白押しの区域となりました。藩政期初期に、浦戸湾とお城下の物流を円滑にするため、現在の堀川が掘られました。堀川を小舟で遡ると、はりまや橋をくぐってここ堀詰まで来れます。堀詰からは北と南にお堀が掘られ、高知城の外堀として、城をぐるりと取り囲んじょりました。その内側が郭中。この電車通りは本町の通りで、その町名からも、当時のメインストリートやったことが推察されます。ここは戦争で焼け野が原になりました。で、復興の都市計画を推進したがが、高知市の土木の課長さんやった清水真澄さん。昭和の百々越前と呼ばれた、高知の街の恩人清水さん。百々越前さんは高知城の築城奉行で、寝食を忘れて高知城と城下町を建設した偉大な土木マン。清水真澄さんも、高知市の復興にそれこそ寝食を忘れて尽力されました。この電車通り、36m道路ながですが、当時は地域住民やら先の見通せない議会などから猛反対があったそうです。戦災直後、こらからは自動車の時代がくると見越して、都市計画を大胆に考えた清水課長は、ここに50m道路を考えました。結局、猛反対に押し切られて現在の36m道路になったそうですが、それでも反対はすごかったみたいですな。
もし、この道路が50mやったら、高知の街のずいぶんと変わっちょったでしょうね。道路行政の難しさです。