潮江天満宮玉垣、服部久吉さん、谷民衛さん〔1763〕2008/02/12
2008年2月12日(火)朝はちくと降りよりました
小雨模様の朝。静かな連休明けの朝を迎えちゅう高知市内。いつもの潮江天満宮は、いつものように静かなたたずまいでした。飛龍梅は今満開。参道を歩いていくと、手前から飛龍梅の馥郁とした香りが漂うできます。天満宮には梅林もありますが、ここの梅は、東端から咲き始めたところで、全体が梅の花で覆われるがはもうちょっとしてからですな。
ここは、天神大橋南詰から参道に入り、手水、楼門の方へ曲がる手前の北側の玉垣。寄進された皆さんの名前が刻まれちょります。
こぢゃんと古いがから大正時代のものまで、色んな時代の玉垣を見ることができますが、この場所のものには、ひまわり太郎も知っちゅう、有名人のお名前も刻まれちょりますね。写真手前に刻まれちゅう名前の中央は「服部久吉」さん。ここから数十メートル西へ行った植え込みに、その胸像も建てられちゅう偉大な人物服部久吉さん。2003年12月26日のにっこりでもご紹介しちょります通り、税務署で酒造の技官として勉強し、高知の近代的酒造業の基礎を築いた方ですね。淡麗辛口の土佐酒の父は、服部さんです。現在でもここから東へ行った天神町で子孫の方が醤油などを醸造されよります。
服部さんの左に刻まれちゅう人物は「谷民衛」さん。高知新聞社の「高知県人名辞典」で調べてみましたら、漁網研究家として名高い谷巌さんのお父様ということが判りました。家はやっぱし現天神町、当時は潮江村上町。谷巌さんは、ちんまい時分から父の民衛さんについて、浦戸湾で釣りに親しんで、その漕ぎ役をつとめたそうですね。で、農商務省水産講習所を卒業した後、官民で漁業、特に漁網の技官として活躍しちょります。「師匠は学者よりも現場の漁師」という姿勢が素晴らしいですね。
この玉垣、何年に寄進されたがかはよう判りません。両端に大きな柱がありまして、一際深く大きく寄進の文字が刻まれちょりますが、側面を見ると天保9年。この大きな柱の間に、おそらくは大正年間につくられたががこの玉垣のようです。天満宮の近所に住む氏子として、ご寄進されたがでしょう。
この玉垣には、他にも有名な人物の名前が刻まれちょりますきに、またの機会にご紹介しましょう。