上岡の八幡様、玉垣〔1591〕2007/08/24
2007年8月24日(金)今日も暑うございますな
今日も良いお天気。予報によりますれば、夕立がザーっときそうな雰囲気もあります。こんな暑さがもっともっと続いてくれたら嬉しいですな。夏が大好きなひまわり太郎といたしましては。
で、まだまだ暑いので、クマゼミとアブラゼミの合唱が続く高知県地方。ツクツクボウシの声はまだ聞いちょりません。ここは、南国工場の近くの上岡八幡宮。物部川左岸のこんもりとした小山に鎮座ましましちょります。この拝殿手前の玉垣を見よりましたら、「金百弐拾五円也 陸軍少将 川田明治」と刻まれた大きな玉垣を見つけました。写真中央の「奉寄進」と刻まれた玉垣です。
高知県出身の軍人さんで有名ながは、何というたち「マレーの虎」山下奉文陸軍大将でしょう。大豊町出身で、陸軍士官学校18期。で、ここに刻まれちょります川田明治さんは、陸士10期ですきに、大分先輩になります。大正12年から14年まで、満州の関東軍の参謀長を務めちょりますね。関東軍は、元々、日露戦争で日本に割譲された南満州鉄道とその沿線地帯を警備するために置かれた軍隊。川田少将が参謀長をやりよった時代は、まさにその役割を果たしよったがでしょうか。段々ときな臭く、軍部が暴走を始めると、満州の関東軍は不穏な動きを見せ始め、昭和6年に満州事変を起こしてしまいます。その頃になると関東軍の参謀長には東条英機とか板垣征四郎とかの名前が出てくるようになって、暴走体勢に入ってきますな。
川田少将は、関東軍参謀の後は北陸の歩兵第18旅団長に転身、軍歴の最後は陸軍中将として下関要塞司令官をやっちょります。昭和3年から5年まで。満州事変がおきてしまう前年で、軍を退役しちょりますね。
この玉垣、いつご寄進されたがか、ちくと調べてみましたが判りませんでした。が、「陸軍少将 川田明治」ですきに、大正の終わりから昭和の始めにかけてでしょうか。金額は、さすがに他のご寄進者にくらべても図抜けて高額でございますね。