知寄町、宝永町、いふ底もなき渕〔1588〕2007/08/21
2007年8月21日(火)晴れ、暑い!
今日も暑うございます。昨日の高知市は35℃やったそうですが、今日はもうちっと暑いそうです。嬉しいですね。
ここは早朝の宝永町。電車通りの、歩道橋のある宝永町交差点。東の方向を向いて撮影してみました。6時前ですが、もうなにやら暑そうでしょ?
この向こうが知寄町。結構古い地名みたいですね。藩政期に書かれた、長宗我部元親さんの時代のことを記述しちゅう「土佐物語」に、その地名が出てきます。岡豊の城から、現在の高知城のある大高坂山に本拠を移転した時期のこと。
大高坂の城下について、「東西南北は皆大河なれば、四方に堤を築き(略)而も北に洞島の渕、鱸岩、東に太布ヶ渕、龍ヶ渕、知寄などいふ底もなき渕なれば、たやすく埋草も及ぶ所にあらず・・・・」と書かれちょります。この「知寄」はこの向こうにあったと思われます。
この「土佐物語」が書かれたがは宝永5年(1708年)。前年の宝永4年に宝永の南海大地震があったので、この写真の界隈南北に「宝永堤」がつくられた、まさにその当時に書かれちょります。その100年以上前に四方に堤を築いちょったがが、地震にはこたわんかったことを考えながら書いたでしょうかね。
ともあれ、戦国の時代は、この東は「いふ底もなき渕」やったらしいのであります。今からは想像もできんですね。
「土佐物語」は、「其上奥山より流れ出づる水強く、堤崩れ町家へ洪水入る事度々なりしかば、貴賤上下、これ如何にせんとぞ悲しみける」と続きます。そこで、せっかく大高坂の山にお城を築いた元親さんですが、交通の要衝浦戸への移転を決意し、引っ越していったのでありました。