神田の和霊神社、文久二年の春〔1572〕2007/08/05
2007年8月5日(日)暑いでんな
今日は朝から晴れちょります。湿度もちくと高めですきに、外を走ると汗が滝のように流れ落ちる暑い暑い日曜日になりました。川とかで泳いだら心地良さそうです。
が、ひまわり太郎、川を泳ぐ時間は無かったので、鏡川沿いを走って神田(こうだ)界隈をまたまたたつくりまわって来ました。今朝は自転車のJr.2号と一緒。
で、ここは目的地の和霊神社。神田(こうだ)の山に鎮座されちゅう、静かなお社です。以前にも一度ご紹介しましたね。坂本龍馬さんゆかりの和霊神社。
龍馬の4代前の坂本家ご当主、坂本直益さんによって、宇和島の和霊神社から勧請してきた、坂本家の神様「和霊神社」。
文久2年の春、坂本龍馬さんはこのお宮さに酒徳利を持ってやって来まして、神様としばらく語ろうた後、そのまま土佐を脱藩してニッポンの洗濯に出掛けたのはあまりにも有名。文久二年と言えば1862年。広沢虎三さんの浪曲の名作「森の石松」では、確か石松つぁんが次郎長親分に使いを頼まれて讃岐の金比羅さんへ代参に行ったのも文久二年の春やったと記憶しちょります。あの三百石船の飲みねえ食いねえのお話は、ほとんど暗記するくらい聞いちょりますきに、間違いなかったと思います。が、史実を調べてみますと、金比羅さんに代参してその帰りがけに都田兄弟のだまし討ちに遭うて殺されたのは、その二年前の1860年、万延元年。虎三さんのやつが創作ながでしょうかね。
いずれにしましても、龍馬さんがこの和霊神社へお参りしてそのまま脱藩した時代、同じ時代に、石松つぁんは、あの浪曲のようなことをしよったという訳で、こうやって並べてみんと、とても同じ時代の話とは思えんですよね。つまり、あの幕末の動乱期、それとはあまり関係なく自分の人生を生きて行きよったヒトもどっしこ居ったということですな。