宝永町の歩道橋から見た電車通り〔1366〕2007/01/11
2007年1月11日(木)今日もまたまた快晴!
今日もよう晴れちょりますな。夜明け前のまだ暗い空のてっぺんに、キレイな形をした半月が輝きよります。
ここは今朝の宝永町。いわゆる「宝永町の歩道橋」の上から西向いて撮影してみました。歩道橋では、おんちゃんが少年を鍛えよりました。階段の下でタイムを計る父と、歩道橋を上って渡って下ってを何度も何度も繰り返す息子。早朝から微笑ましかったです。
何度もお話した通り、「宝永町」は、宝永の南海大地震(1707年)でこの界隈が水没してしもうたので、お城下の下町に水が入って来んように堤防をこさえ、「宝永堤」と名付けたことに由来。
たぶんですね、そのしゅっと向こう、歩道橋の交差点のひとつ向こうの交差点の辺りを南北に築かれちょったがが「宝永堤」やと思います。もうちょっと手前かも知れません。そう言えば、この歩道橋の交差点から北に、こんなに広うに道路が抜けたがはそんなに前やなかったですね。これを北へ行くと一文橋ですが、電車通りから一文橋へ行くには、その宝永堤の向こうの信号を右折、北上して江の口川に突き当たり、右折左折しよりました。新しい道路ができて、昔の地形が急速に記憶から飛んでいくがが悲しいですな。
宝永堤から東は「下知村」。伊能忠敬さんの地図にも「下知村」と出てきますきに、江戸時代も下知村やったことがわかります。下知村は、大正15年1月に高知市に合併されちょりますね。