郭中の東端、つちばし〔1246〕2006/09/13
2006年9月13日(水)曇っちょります
昨日、藩政期の高知城下、郭中の西端「升形」をご紹介しました。高知城を中心にして、上級武士専用の居住区とされた郭中は、西が升形、北が江の口川、南が鏡川を境界とします。それでは東の境界はどこでしょうか。
昨年、2005年8月31日のにっこりで、境界の痕跡をご紹介しちょります。現在の大丸の西側あたりが境界で、ここから西は郭中、東は下町(しもまち)ということになっちょりました。境には堀が掘られ、土塁が築かれちょったそうです。2005年8月31日の写真は、その土塁の名残の盛り上がり。
浦戸湾から堀川を遡り、四ツ橋から西へ、土佐橋、はりまや橋をくぐると少し広うなります。そこに架かっちょった橋は使者屋橋と新京橋。そこから北へ、追手筋のもう少し北まで小さなお堀が掘られちょりました。手元の、昭和の初期、戦争前の地図にもそのお堀が書かれちゅうので、ご年配の方は覚えちょられます。
現在のどこに、そのお堀が掘られちょったかと申しますと、ここ、高知大丸本館西側の小さな路地。この路地が、お堀を埋め立てたものらしいです。つまり、新京橋のところから、この大丸西をまっすぐ北に向いてがお堀やったがです。写真の通り、路地を北へ行くと、アーケードのおそば屋さんに突き当たります。このお店の名前は何と「つちばし」。ひまわり太郎が子供の頃には、もう営業しよったおそばやさんで、店の前の水車が懐かしいお店「つちばし」。まさにこの場所に、お堀に架かる「土橋(つちばし)」があったという訳です。そして、このお店の北裏が、2005年8月31日ご紹介の盛り上がり。う~ん、おぼろげながら高知城下の風景が見えてきました。