桟橋通り、土電電車の歴史〔1149〕2006/06/08
2006年6月8日(木)曇り
今日は曇り。午後には雨の予報。暑うなって欲しいところですな。
さて、今朝も鏡川。ここは潮江橋南詰。こないだご紹介した「河ねきホール」の丁度真上あたりから桟橋方面を撮影してみました。朝の時間帯、土佐電鉄の桟橋車庫からどんどんと電車が繰り出してきます。左側の電車は伊野行きですね。
正面の電車通りをまっすぐ行くと、県民体育館や高知工業高校、高知南警察署、自由民権記念館などの間を通り抜けて高知港の桟橋に突き当たります。と、言う訳で、この通りを高知のヒトは桟橋通りと呼びます。
高知港の桟橋が出来たのは明治37年。「浦戸港潮江桟橋」ということで、大型船が着岸できる港が高知で始めて整備されたのであります。それまでは、大型船の荷物はその向こうの孕(はらみ)で艀に乗り換えて農人町まで運ばれよりました。もちろん大型船に乗ってきたヒトも同じです。
明治37年、桟橋が完成すると、桟橋で乗り降りする人々の為の陸上交通手段が必要になります。そこで、5月2日、土佐電気鉄道の潮江線1.8kmが開業したのでありました。この写真中央部の梅ノ辻から桟橋まで。同日、堀詰から乗出(現グランド通り)までの本町線1.2kmも開業し、土佐電気鉄道の歴史が始まりました。それまでは田んぼしかなかった潮江地区も、戦争を挟んで徐々に賑わいを見せ、現在のような姿になったがです。土電のHPによりますとですね、最初の2ヶ月間で、本町潮江両線を利用したお客さんは何と86,250人。すごいですね。開業するやいなや市民の重要な足になったことがよう判ります。ちなみに、写真のように電車が鏡川を渡って両線がつながったのは、開業から2年後の明治39年やそうです。
ひまわり太郎Motherは、浦戸の家から巡航船に乗って桟橋まで行き、そこから電車に乗って女学校に通うたことがあると話しよりました。